中学2年生の時の先生との出会いから、それまでの、極度の恥ずかしがり屋を克服した、萩本欽一(はぎもと きんいち)さんですが、コメディアンを目指すようになるも・・・
「萩本欽一が芸能人を志したのは父の借金苦と中2の先生がきっかけだった!」からの続き
浅草松竹演芸場で修行するつもりが・・・
中学2年生の時、先生の一言で、極度の恥ずかしがり屋を克服し、そのうえ、人を笑わす快感まで覚えた萩本さんは、コメディアンになる決意をされたそうで、
尊敬する榎本健一さんやチャールズ・チャップリンが約10年修行をしたことを本で読んで知ると、自分も浅草の劇場で地道にやるしかないと考え、お父さんに、浅草でやりたい旨を伝えます。
(お父さんは、事業の失敗後、いったん失踪するも、その後、お兄さんが開いた写真館で働いていたそうです)
すると、お父さんは、以前、住んでいた浅草のマンションの大家さんが、ストリップ劇場の「東洋劇場」(現・東洋館)と関係が深かったことから、そのことがきっかけで、「東洋劇場」で演出をやっている先生を紹介してもらったそうで、
萩本さんが中学を卒業する頃、その先生に「松竹演芸場」を紹介してもらうと、「松竹演芸場」のデン助こと大宮敏充さんに弟子入りを願ったのですが・・・
デン助さんからは、
これからはコメディアンでも学歴が大事。せめて高校くらいは出たほうがいい
と、言われたそうで、
萩本さんとしては、一刻も早く修行に出たい気持ちを抑えつつ、この言葉に従い、高校に通うことにしたのでした。
デン助への弟子入りを諦め東洋劇場に入団
ただ、この高校3年間の間に、デン助さんは東映の映画で主演を務められるなど、すごい売れっ子になってしまい、楽屋に挨拶に行こうとするも、すでにファンが列を作って並んでいる状態で、
デン助さんを仲介してくれた「東洋劇場」の人からは、
こういう状況だから、デン助さんもお前のことを覚えているかわからない。弟子入りなんて無理かもしれない。でも、無理だったとしても心配するな。そのときは俺のところに来ればいいから。
と、言われてしまいます。
それでも、萩本さんは、この言葉を聞いて、
ありがたい話だな
と、思ったそうですが、
かといって、
本命が無理だから、弟子入りさせてください
と、言うのも失礼な話だと思い、それだったら、デン助さんに弟子入りすることを諦め、
そちらでお世話にならせてください
と、伝えたところ、
俺のところ? それだったら今日からでも大丈夫だよ
と、言ってくれたそうで、萩本さんはすぐに「東洋劇場」に入られたのでした。
ちなみに、後に、デン助さんからは、
お前はうちに来なくてよかったよ。うちだったら、一生、陽の目を見なかっただろうね
と、言われたそうで、
萩本さんも、
たしかにそうなんだよ。というのもデン助さんのところはしっかりした劇団だから、先輩を追い抜くことはなかなかできないの。「お待ちどおさまでした~」とか言って、ずっとラーメンの出前役をやり続けるしかなかったと思う。
「どっちが得か?」みたいに目先のことばかり考えているとダメなんだよ。そこには未来なんてない。損得勘定は運を呼び込まないからね。それよりは恩返しだったり、人の期待に応えたいという気持ちが大事だと僕は思うんです。
人のために何かをすると、途中で投げられないじゃない。自分のために始めたことって、途中でつまずくと「まぁいいや。代わりにこれをするか」ってすぐに路線変更できちゃうでしょ。
そこには大きな違いがあるよ。東洋劇場のときもデン助さんを紹介してくれたりしたのが純粋にありがたかったし、その気持ちに応えたいなと思っただけなんだよね。
と、語っておられました。
「東洋劇場」入団3ヶ月でクビを宣言される
こうして、萩本さんは、「東洋劇場」に入団された訳ですが・・・
「東洋劇場」では、歌やダンスも含めて、なんでもオールマイティにこなせることが一流の条件だったため、まずは、芝居、ストリップの合間のコント、「ウエスト・サイド・ストーリー」のようなミュージカルなど、なんでもやらされたのですが、
(逆に、トークは優先順位が低く、話術だけでお客さんを笑わせたりすると、後で、鼻血が出るほど殴られたこともあったそうです)
本来、人見知りな性格の萩本さんは、お芝居では、3つのセリフのうち、2つもセリフが言えないほど、本番ではあがってしまい、それから3ヶ月くらい経った頃には、
萩本さんを入団させてくれた演出家の先生に呼び出され、
この世界はダメだった場合の潰しがきかない。辞めるなら早いほうがいい。今までいろんな奴を見てきたけど、早ければ1週間くらいで才能の片鱗が見えてくる。
3か月経っても、お前からはセンスというものがまるで見えてこない。今日で終わりにしよう。
と、言われてしまったのでした。