「桃太郎侍」「遠山の金さん」「三匹が斬る!」など数多くの時代劇で主演を務め、時代劇スターとして人気を博した、高橋英樹(たかはし ひでき)さん。今回は、そんな高橋さんの生い立ちからデビュー間もない頃についてご紹介します。
年齢は?出身は?身長は?本名は?
高橋さんは、1944年2月10日生まれ、
千葉県木更津市のご出身、
身長181センチ、
体重80キロ、
血液型はB型、
学歴は、
船橋市立二宮小学校
⇒千葉市立検見川小学校(転校)
⇒千葉市立緑町中学校
⇒私立市川高等学校
⇒日本大学芸術学部中退
趣味は、
家族、ゴルフ、日本画、書道、
ちなみに、「高橋英樹」は本名で、当時の首相・東条英機にちなんで名付けられたそうです。
また、愛称は「ナイスガイ」で、1962年、「週刊平凡」誌上で愛称を公募したところ、応募総数14,532通のうち「ナイスガイ」が3,826通と圧倒的多数を占め、決まったそうです。
生い立ち
高橋さんは、教職者(キリスト教)で高校の校長も務められたお父さんのもと、4人兄姉の末っ子(姉2人兄1人)として誕生すると、チャンバラごっこやメンコ遊びが好きな子どもだったそうですが、
メンコの絵柄には、時代劇スターが多く使われていたため、やがて、映画スターに憧れるようになり、高校生の時には、映画を週に9~10本も観るほどになったそうで、
後に、高橋さんは、
表現するものの面白さに惹かれました。また、映画が自分に影響を与えてくれているように、自分が今を生きている人たちに映画を通していろいろなことを訴えることができる、これはとても素敵な仕事だなと思いましたね。
娯楽というと映画を観に行くのがほとんどの時代に、その仕事ができるというのは、すごく夢に近かったですね。
と、映画の世界に憧れるようになった理由を明かされています。
高2で「日活」に入社
そんな高橋さんは、高校2年生の終わり頃、クラス分けのため、将来何になりたいか、というテーマで作文を書くことになった時、「映画俳優になりたい」と書いたそうですが、そのせいで、お父さんが学校から呼び出されてしまったそうです。
すると、厳格だったお父さんは、高橋さんが芸能界入りを希望していることを知り、猛反対。
芸能界に入るなら勘当だ
とまで、言われてしまったそうです。
そして、お父さんは、
一度受けさせて、あきらめさせよう
という考えから、
高橋さんが修学旅行に行って、留守にしてる間に、高橋さんに内緒でこっそりと「日活」へ応募書類を送られたそうですが、お父さんの思惑は見事に外れ、「第一次写真審査通過」のハガキが届きます。
そして、今度は、面接試験に際して、
万が一、合格したら勘当だ
と、言われたそうですが、またもや、お父さんの思惑は外れ、高橋さんは、見事合格されたそうで、
その後、高橋さんとお父さんは口を聞かず、半勘当状態となってしまったそうです。
ちなみに、高橋さんは、試験では、宍戸錠さんのマネをされたそうで、
試験のときに錠さんのまねをして、それで通った。学生時代から映画を見ていて、錠さんの仕草とかを見ていたおかげです。
と、語っておられました。
赤木圭一郎の代役で「激流に生きる男」の主演に抜擢
こうして、高橋さんは、高校在学中の1961年、17歳の時、「日活ニューフェース」第5期生として「日活」に入社されると、同年、「高原児」で映画デビューし、
「高原児」より。
翌年の1962年には、死亡した日活の若手スター・赤木圭一郎さんの代役として、映画「激流に生きる男」の主演に抜擢。
「激流に生きる男」より。吉永小百合さんと高橋さん。
まだ駆け出しの新人でありながら、大部屋(仕出し)を経験せず、いきなり役付きでの出演という、当時の新人としてはありえないラッキーなスタートを切ったのでした。
(「激流に生きる男」は、赤木圭一郎さんを主演に計画されていた映画だったのですが、赤木さんは、1961年、「日活」の撮影所内の事故で他界されています)
浅丘ルリ子とは姉弟のような関係
ところで、高橋さんは、デビュー当時、自宅がある千葉市から、電車で、東京・調布市にある「日活」の撮影所まで通われていたのですが、
「日活」の先輩・浅丘ルリ子さんから、公私に渡って演技の指導を受けていたことから、石原裕次郎さんの口利きで調布市の浅丘さん宅に下宿するようになったそうで、
浅丘さん宅では、浅丘さんのお母さんに食事を作ってもらうなど、物心両面でお世話になったことから、浅丘さんとは今でも姉弟のような関係で頭が上がらないとのこと。
ちなみに、高橋さんは、デビュー作「高原児」で、浅丘さんの弟役を演じているのですが、10代ながらも大人びたルックスだったため、最初、浅丘さんは高橋さんのことを、「お兄さん役だと思った」と語っておられました。
「高橋英樹の昔は任侠映画でブレイク後に時代劇俳優となっていた!」に続く