もともと、温厚で気遣いのできる人だったにもかかわらず、「躁うつ病」の影響で、脚本家や演出家にまで口を出すようになり、周囲の恨みを買って孤立していくと、やがては、虚言や記憶障害まで現れるようになった、田宮二郎(たみや じろう)さんですが、ついに、行き着くところまで行ってしまいます。
「田宮二郎は躁鬱病で山本學に盲腸を切らせてほしいと迫っていた!」からの続き
自ら死体役を演じていた
1978年11月15日、「白い巨塔」のすべての撮影を終えると、12月26日には、妻の幸子さんとともに、フジテレビで最終回の試写を観た田宮さんですが、
劇中、財前が息を引取り、顔に布をかぶせられ、ストレッチャーに乗せられていく最後のシーンでは、
共演者の清水章吾さんによると、
田宮さんは顔を覆っていた布を取って周りを見渡し、大物俳優からチョイ役の人まで、みんなが自分に涙してくれているのを見て「役者冥利に尽きる」と言ったんだ。
と、エキストラでも良かったにもかかわらず、自ら死体役を演じられたそうです。
田宮さん演じる財前の壮絶な最期。
死因は愛用の散弾銃による自殺
その後、「白い巨塔」のテレビ放送が残り2話となった12月28日、「田宮企画」の代表である妻の幸子さんは、年末の支払いで、朝10時に銀座で人と待ち合わせをしていたそうですが、
年末で仕事納めということもあり、事務所に立ち寄ったところ、ついさっきまで、田宮さんから3分おき1分おきと短い間隔で幸子さんを呼ぶ電話があったことをスタッフから聞かされたそうで、
胸騒ぎを覚えた幸子さんは、マネージャーとともに、タクシーで自宅へ急いで戻り、玄関のドアを開けると、そこは、ただならぬ気配に包まれていたそうです。
(というのも、同居していた幸子さんのお母さんが、持病の「腸捻転」で緊急入院されたばかりで、田宮さんは、それを自分のせいだと思い込み、ひどく動揺されていたからです。)
そして、幸子さんが寝室のドアを開けると、ベッドには横たわる田宮さんの姿が。
すると、その体は熱く、布団の中も熱く、顔は微笑んでいて、いつもの田宮さんのいい香りがしたそうで、
呼べばすぐに起きてくるとしか思えない
と、幸子さんは慌てて救急車を呼んだそうですが、
5分で駆けつけるということでしたが、その5分は、30分にも1時間にも感じられました。
と、救急隊の到着はとても遅く感じ、
その後、救急隊がやってきた後も、幸子さんには、救急隊の動作がひどく鈍く見え、しかも、田宮さんを運ぶことなく引き揚げるような素振りに見えたことから、
なぜ早く運ばないの! 早くして! あなたたちに何がわかるの! 急いで病院に運んで!
と、苛立ち、怒鳴ったそうですが・・・
しばらくして、付き人から連絡を受けた刑事がやってくると、すぐに、その刑事は、「即死」であることを示すため、クビを横に振ったそうで、
幸子さんは、ここで、ようやく、田宮さんが亡くなったことを受け入れたのだそうです。
しかし、そうと分かると、もっと早く田宮さんのそばに寄り添いたかったと、
なんで待っててくれなかったの! 生きると決めたんじゃなかったの!
と、田宮さんの体をゆすり、叫んだのだそうです。
(田宮さんの死因は、愛用の米国パックマイヤー社製の上下2連式クレー射撃用散弾銃で自らの心臓を撃ち抜いた自殺でした。(散弾銃の引き金を足の指で引いたと言われています))
苦悶の表情での死
ちなみに、付き人(先ほどのマネージャーと同一人物かは不明)の証言によると、田宮さんが自殺した当日の12月28日は、午前中、南青山に住む幸子さんから連絡を受け、幸子さんのお母さんを病院に連れていった後、港区元麻布の田宮さんの自宅に戻り、そのことを田宮さんに報告すると、
お昼近く、田宮さんが「お腹が空いた」と言ったため、赤坂の洋食店で弁当を買ってきて、1階のキッチンでお茶を入れ、弁当と梅干しを載せたお盆を持って2階に上がり、寝室の前で田宮さんに声をかけたそうですが、返事はなかったそうです。
そこで、しばらくして、付き人がドアを開けると、そこには、ベッドに横たわり、自殺を遂げた田宮さんの姿があったそうで、田宮さんは、苦悶の表情を浮かべ、股関節のあたりまで掛かっていた掛け布団の下から銃口がのぞき、田宮さんの体の左側に血が飛び散っていたそうです。(「部屋は血の海だった」との報道は嘘。)
「田宮二郎の自殺原因は大映・永田雅一のパワハラだった?」に続く