医師のお父さんと看護婦のお母さんのもとに誕生するも、人の良いお父さんを見ていたことから、医師を継ぐ気にはなれなかった、山城新伍(やましろ しんご)さんですが、大阪医科大学、関西医科大学の受験に失敗し、小学生の頃から、映画館に入り浸ってはメモを取りながら観るほど好きだった映画界を目指すと、一気に花開きます。
「山城新伍の生い立ちは?幼少期は映画好きのガキ大将だった!」からの続き
テレビ時代劇「風小僧」で主演
貧乏医師だったお父さんを見て育ち、割に合わないと、医師になる気が起こらなかった山城さんでしたが、その後、思い直したのか、両親と同じ医療の道に進もうと、大阪医科大学、関西医科大学を受験されるのですが、不合格に。
そこで、医師の道をあきらめ、もともと、映画好きだったことから、時代劇スターに憧れ、エキストラをやった後、「東映ニューフェイス」第4期に応募すると、見事合格。
1957年には、「東映」に「東映ニューフェイス」第4期として入社すると、1958年には、映画「台風」で俳優デビュー。翌年の1959年には、テレビ時代劇「風小僧」の主演に抜擢され、見目麗しい、美剣士の役を好演されたのでした。
(当時、「東映」は、京都と東京に撮影所が分かれていて、京都は時代劇、東京は現代劇の作品を作っていたのですが、山城さんは、京都に配属されたようです。)
「風小僧」より。右が山城さん。
テレビ時代劇「白馬童子」でブレイク
ところで、山城さんは、「東映」に入ったばかりの頃、通行人のエキストラをやるのが嫌だったため、
先輩俳優からの、
乗馬を覚えておけ。馬に乗れるようになれば、ウチ(東映京都)は時代劇(の映画)が多いから、どこかで使ってもらえる。
とのアドバイス通り、乗馬を覚えたところ、
子ども向けのテレビ時代劇「白馬童子」の主演のオファーが舞い込んだそうで、
「白馬童子」より。白馬童子に扮する山城さん。
1960年、「白馬童子」で主演を務めると、都会的な端正な顔立ちに白装束姿で、白馬に颯爽(さっそう)とまたがる姿は、立ち回りのキレの良さもあり、子どもだけでなく大人からも人気を博し、ドラマは視聴率30%を超える大ヒットとなったのでした。
「白馬童子」より。中央が山城さん。
「東映」で人気ナンバーワンに
この大ヒットにより、「東映」の俳優によるファンイベントの野球大会が行われた際には、山城さんが登場すると、並み居るスター(映画)俳優を差し置いて、客席からの声援や拍手が一番大きかったそうですが、
山城さんは、そんな山城さんの人気に嫉妬した映画監督や映画俳優から、数知れずイジメを受け、以降、長きに渡り、映画では脇役に甘んじることになったそうです。
(当時は、映画全盛の時代で、テレビはまだ黎明期だったため、映画会社はテレビを軽視。そのため、テレビドラマには無名の俳優ばかり出演しており、映画監督や映画俳優は、テレビの仕事をする監督や役者を二流だと考えていたそうです。)
野球大会での山城さん。