大ヒットドラマ「大都会」シリーズが、ずっと「日本テレビ」で放送されてきたにもかかわらず、様々な思惑が絡み、同じ路線の新ドラマ「西部警察」が「テレビ朝日」で放送されることになるのですが、渡哲也(わたり てつや)さんも、人生における大きな決断をされていました。
「渡哲也の大都会と西部警察出演は石原プロ再建の為だった!」からの続き
石原裕次郎はテレビ朝日移籍に反対
こうして、小林正彦専務(通称「コマサ」)は、1978年9月10日の夜、成城にあった石原裕次郎さんの邸宅で、石原さんと渡さんを前に、「テレビ朝日」からのオファーを切り出されたそうですが、
石原さんは、
お前、どうかしてんじゃねぇのか!
日テレには義理がある
と、険しい顔で反対。
というのも、石原さんと渡さんの二枚看板を中心に、「石原プロモーション」の若手俳優たちは、「大都会」だけではなく、同時期に放送されていた「太陽にほえろ!」という「日本テレビ」の高視聴率ドラマにも出演していたのです。
小林専務(コマサ)が石原裕次郎を説得
しかし、小林専務は、
有利な条件を勝ち取れます。石原プロを再建する千載一遇のチャンスです
と、食い下がり、
再建を果たして映画を撮るためにも、苦労をかけている社員たちに報いるためにも、石原プロは稼がなければならない
との旨を、意を尽くして説得。
それでも、石原さんは、
だからといって義理を欠いていいということにはならない
と、頑なに反対してたのですが・・・
すると、これまで、石原さんに反論したことのない小林専務が、
視聴率が落ちても、日テレが石原プロを養ってくれるんですか? 映画を撮らせてくれるんですか? 義理だ筋だというのは男同士の話であって、組織対組織は非情なもんでしょう。組織は社員を養っていく義務があるんじゃないんですか?
と、姿勢を正し、身を乗り出すようにして、石原さんに迫ったのだそうです。
石原裕次郎がテレビ朝日移籍を決断
これらの二人のやりとりを、渡さんは、黙って聞きながら、
どちらも一理ある。夢は男の宝だという。だが、夢を食っては生きてはいけない。夢を実現するためには越えなければならない壁があるのではないか。
と、ジレンマを感じつつも、
いずれにしても、俺は社長(石原裕次郎)についていくだけだ
と、腹をくくっていたそうですが、
石原さんは、小林専務と渡さんが帰った後、自問自答を繰り返したそうで、その結果、
「映画を撮る」を合言葉に社員たちは身を削るようにしてがんばっている。彼らの苦労を思えば、自分がこだわる義理や筋はちっぽけなものかもしれない‥‥
と、「テレビ朝日」への移籍を決断されたのでした。
5年で「石原プロモーション」を退社する予定だった
ところで、渡さんは、「石原プロモーション」に入社した当初から、「5年」と区切りをつけていたことから、「大都会PARTIII」が終了後、「石原プロモーション」を退社するつもりでいたといいます。
つまり、
脂の乗った大事な時期をアクション刑事で通せば、俳優として決してプラスにはなるまい。
と、いうことなのですが、
幸い、「石原プロモーション」は、「大都会」シリーズのヒットで、何とか倒産危機を脱していたこともあり、この機に「石原プロモーション」を退社、と決心していたというのです。
石原裕次郎の為に自らキャリアUPの道を封印
しかし、そんな矢先に、石原さんの邸宅で、小林専務から、この「西部警察」の話を切り出され、
その夜、渡さんが帰宅すると、石原さんから電話をかかってきて、
石原さん:悪いな、遅くに。
渡さん:いえ
石原さん:やることにした。
渡さん:はい
渡さん:大変なのはテツだ。だからコマサ(小林専務)に話す前に電話したんだ。
渡さん:お気遣い、ありがとうございます。精一杯やらせていただきます。
石原さん:ありがとう。じゃ、また明日。
と、石原さんと話したそうで、
渡さんは、俳優としてのキャリアアップの道を自ら封印。石原さんについていく決心をされたのでした。
(ちなみに、「日本テレビ」はというと、経営的な観点から、「石原プロモーション」の直接営業が認めることができなかったそうですが、当時の「テレビ朝日」は弱体だったことから、どうせシリーズは失敗し、いずれ戻ってくるだろうとの思惑があったそうで、意外にも「石原プロモーション」を気持ち良く送り出してくれたのだそうです。)
「渡哲也が小林専務(コマサ)に不信感を抱き始めた理由とは?」に続く