大ヒットドラマ、「大都会」シリーズや「西部警察」シリーズで主演を務め、「石原プロモーション」の再建に大きく貢献された、渡哲也(わたり てつや)さんですが、その大ヒットドラマの一つである、「西部警察」放送の裏には、様々な思惑が絡んでいたといいます。

「渡哲也は昔度重なる病もくちなしの花が大ヒット!」からの続き

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「大都会」が大ヒット

再び「東映」からオファーがあり、渡さんも強く「東映」入りを希望するも、度重なる病のため、「東映」入りが流れてしまった渡さんは、

「東映」映画への出演は「やくざの墓場 くちなしの花」(1976年公開)が最後となり、「石原プロモーション」が会社再建のためテレビドラマに本格進出した、「大都会 闘いの日々」に専念するため、映画への出演自体も一時的に撤退。

こうして、渡さんは、病床からの復帰第一作として、「大都会 闘いの日々」に主演で出演されると、

視聴率的には振るわないながら、識者からは高い評価を受け、

「大都会 PARTII」
「大都会 PARTIII」

とシリーズ化します。(「–PARTII」からは、アクションを前面に押し出した作風に移行して一般ウケするようになり、視聴率もアップ。大ヒットしました。)


「大都会 PARTII」より。(左から)松田優作さん、渡さん、石原裕次郎さん。

「西部警察」のヒットで石原プロ社長に就任

そして、「大都会」シリーズの終了後スタートした「西部警察」シリーズも、5年間放送されるというロングヒットとなり、

(これらの刑事ドラマで見せた、渡さんの「角刈りにサングラス」というスタイルは、渡さんのトレードマークになりました。)

この活躍から、渡さんは、「石原プロモーション」の再建に大きく貢献したということで、副社長に就任。1987年、社長の石原裕次郎さんが亡くなると、「石原プロモーション」の二代目社長に就任されたのでした。

日本テレビからテレビ朝日に鞍替え

ただ、「石原プロモーション」では、「西部警察」を巡って、大きな決断に迫られていたといいます。

映画の失敗で8億円もの負債を抱え、倒産危機に直面するも、1976年に「日本テレビ」でスタートした「大都会」シリーズのヒットにより、少しずつ経営が持ち直し始めた「石原プロモーション」でしたが、

その3年後の「大都会PARTIII」を最後に、突如、「日本テレビ」から手を引き、「テレビ朝日」「西部警察」をスタートさせたのです。

「西部警察」は、内容的にも、「大都会」シリーズの延長線上であったにもかかわらず。

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「西部警察」がテレビ朝日で放送された理由とは?

これには、

好条件でテレビ朝日が引き抜いたのではないか?

との噂が流れたのですが、

当時、テレビドラマの視聴率においては、「TBS」が独走しており、これに、「NHK」「日本テレビ」が追走し、「フジテレビ」「テレビ朝日」は後塵を拝している状況で、

そのため、「大都会」シリーズのヒットを目の当たりにした、「テレビ朝日」の三浦甲子二専務(…朝日新聞出身で「テレビ朝日の天皇」と呼ばれていたそうです)が、

いずれテレビ界もアウトソーシング(外部制作)の時代がやってくる。視聴率の取れる娯楽作品を作るとしたら、石原プロモーションをおいてほかにない

と、石原裕次郎と渡哲也というビッグネームを筆頭に、数多くの若手人気俳優を抱え、制作においても最高の技術を誇っていた「石原プロモーション」に、起死回生の一手を求め、

「石原プロモーション」の番頭だった、小林正彦専務(通称「コマサ」)にこの話を持ちかけてきたのです。

すると、これを聞いた小林専務は、

テレビ局は放送枠を広告代理店に売り、広告代理店がスポンサー営業する。石原プロモーションは制作を請け負うだけでなく、スポンサーを直接営業する。

という前代未聞の発想を思いついたそうで、これなら、テレビ朝日も呑むだろうと、

石原プロを再建する千載一遇のチャンス

と、考えたのですが・・・

「渡哲也は石原裕次郎のため自らキャリアUPを封印していた!」に続く

https://www.youtube.com/watch?v=0vjb2DTBPOQ

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