実家の医院を継ぐ重圧から開放されたことで、ますます、幼少期から好きだった芸術の世界に没頭したという、佐野史郎(さの しろう)さんですが、何をやっても才能に限界を感じたそうで、最後に残ったのが、演劇だったそうです。

「佐野史郎は高校まで実家の医院を継ぐ予定だった!」からの続き

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消去法で出来ることが「演じること」だった

高校2年生のクラス分けテストが芳(かんば)しくなかったお陰で、家業の医院を継ぐことから開放された佐野さんは、もともと好きだった、文学、音楽、お芝居に、ますます没頭するようになっていったそうで、

高校卒業後は、目的もなく大学に進学し卒業することに疑問を感じていたことから、推薦入学の決まっていた大学には行かず、武蔵野美術大学を受験するのですが・・・あえなく不合格。

ただ、浪人する気はなかったため、中村宏油彩画工房で絵を学ぶも、1年で才能の限界を感じ断念。

そして、音楽は好きだけどギターも歌も下手、絵は好きだけどデッサンはできない、本を読むことは好きだけど文章はよく分からず自分で書くことはできない中、自分に何ができるのか、何に適性があるのかと強く考えた結果、消去法で残ったのが、「演じること」だったそうです。

唐十郎の「状況劇場」の芝居に衝撃を受ける

そんな中、佐野さんは、1974年、19歳の時、唐十郎さん主宰の「状況劇場」の舞台「唐番 風の又三郎」を観て、あまりの凄さに圧倒されたそうです。

ただ、だからといって、劇団に入りたい、と思った訳ではなかったそうですが、唐さんの世界に触れていたい、とは思ったことから、劇団員の四谷シモンさんの人形展や、金子國義さんの個展を観に行くなど、極力、劇団員たちと交友関係を持つようにしていたのだそうです。

(四谷シモンさんは、日本で初めて「球体関節人形」という独自の人形を制作するなど人形作家。金子國義さんは、ロックバンド「L’Arc〜en〜Ciel」のヴォーカル・hydeさんとプライベートを含めて親交が深く、hydeさんのソロアルバム「FAITH」のジャケットを手がけられたこともあったそうですが、2015年に他界されています。)

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「シェイクスピア・シアター」の旗揚げに参加

そして、唐さんのお芝居と同時に、シェイクスピアにも惹かれていた佐野さんは、演出家・出口典雄さん主宰の、シェイクスピアに特化した演劇塾に通うと、1975年、20歳の時には、同じ演劇塾のメンバーによって結成された「シェイクスピア・シアター」の旗揚げに参加。

この「シェイクスピア・シアター」によるシェイクスピア劇は、崇高で重々しいアカデミックなシェイクスピアではなく、ジーズンにTシャツという出で立ちで、ロックバンドによる生演奏という、斬新なスタイルだったそうですが、これが話題になり、お客さんが大勢詰めかけ大ヒット。

ただ、やはり、シェイクスピア劇ということで、アカデミックな劇を期待して集まってくるお客さんも少なくなく、そんなお客さんの意見を反映して、3年過ぎたあたりからは、だんだん重々しい歴史劇をすることが増えていき、佐野さんが思い描いていた劇と、少しずつズレが生じ始めたそうで、佐野さんの情熱も徐々に冷めていったのだそうです。

(重々しいお芝居だと、若い佐野さんの出番が少なかったというのもあったそうです)

「佐野史郎の映画デビューは「夢みるように眠りたい」の主演!」に続く

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