1967年には、女優の吉永小百合さんと真剣交際されるも、吉永さんの両親の反対に遭い、2年足らずで破局してしまった、渡哲也(わたり てつや)さんですが、その後、新たな出会いが。今回は、そんな渡さんの、奥さん、息子さん、お父さんについてご紹介します。
「渡哲也と吉永小百合は昔真剣交際していた!破局理由は?」からの続き
妻は?
渡さんは、1971年、同じ青山学院大学の同級生の、俊子さんという一般女性と結婚されています(大恋愛の末の結婚だったそうですが、詳細は分かりませんでした)。
そんなお二人は、二人だけでハワイで結婚式を挙げられると、翌年の1972年には、男の子が誕生しているのですが、これまでの長い結婚生活では、渡さんが何度も病に倒れられていることから、決して、順風満帆な生活ではなかったようです。
病の真っ最中に子どもが誕生
実は、渡さんの闘病が始まったのは、結婚の翌年の1972年のことで、映画の撮影中、胸に激しい痛みを感じ、息もできないほどの状態に陥ったといいます。
しかし、この時は、ただの過労だろうと、無理をして撮影を続けたそうで、その後、高熱が出たため、病院で検査を受けると、「肋膜炎」との診断。
渡さんは2ヶ月足らずで退院することができたのですが、この時、奥さんは、妊娠中で、渡さんの看病疲れがたたってか、同年、早産で男の子を出産されたそうで、
赤ちゃんは、1週間生きられるかどうかと言われるほど、とても危険な状態が続き、渡さんは、そんな赤ちゃんに会いに、毎日、病院を訪れていたそうです。
父親がガンで死去
そして、さらに不幸は続き、故郷・淡路島で暮らす渡さんのお父さんに、ガンの疑いがあることが判明。
渡さんは、お父さんを東京に呼び寄せられると、東京の病院(赤ちゃんと同じ病院)で手術を受けさせるのですが、病状は厳しく、余命1ヶ月と宣告されてしまいます。
そんなお父さんは、保育器の中で過ごす孫に毎日のように会いに行っていたそうで、その祈りが通じてか、赤ちゃんは、無事、命の危機を脱して退院。
その後は、奥さんが、赤ちゃんの検診で病院を訪れるたびに、お父さんに孫を抱かせていたそうですが、やがて、お父さんは亡くなってしまいます。
直腸ガンで人工肛門となったことを公表
一方、渡さんも、その後、何度か入院を経験されているのですが、結婚から20年後の1991年には「直腸ガン」が発覚。
柏木純一さんの著書「渡哲也 俺」によると、渡さんは、バリウムの検査で直腸の上にある「S状結腸」とその奥の「下行結腸」にそれぞれ5ミリ大と7ミリ大のポリープ(ガン)が確認されたのですが、
仕事が忙しく、2ヶ月後に、ようやくポリープ切除のための内視鏡検査を受けられると、検査の結果、2つだと思われていたポリープは、実は4つだったことが判明。小さな一つは焼き切ることができたのですが、残りの3つは手術することとなります。
しかし、ガンは早期発見できたものの、予想以上に病巣が深かったため、直腸を25センチも切除するという大手術となったそうで、その後、渡さんは、この手術で「オストメイト(人工肛門保有者)」になったことを公表されています。
ちなみに、ガンが発覚した時、医師からは、まず、奥さんに、ガンのこと、大手術が必要なこと、場合によっては人工肛門になることを伝えられたそうで、奥さんは渡さんに伝えるか悩んだそうですが、最終的には、
主人に嘘はつけない
と、決断し、渡さんに伝えられたのだそうです。
度重なる闘病生活も妻が献身的な看病
その後、渡さんは、2015年には、「急性心筋梗塞」で入院・手術されているのですが、その折には、奥さんが、一ヶ月間、病室に寝泊まりして看病され、
退院後も、
渡さんの退院前から、俊子さんは自宅にリハビリ用のマシンを運び入れていました。室内ランニングやウォーキング用のトレッドミルや、自転車のようにペダルを踏んで運動するマシンなどですね。
マシンを使用する運動のほかにも、階段の昇り降りもリハビリになりますが、俊子さんはいつも付き添っているのです(渡さんご夫婦の知人)。
と、自宅での渡さんのリハビリを、献身的に支えられていたそうです。
ちなみに、渡さんは、舘ひろしさんに、
妻にいじめられながらリハビリしている
と、電話でおっしゃっていたことがあったそうですが、
病に何度も倒れながらも、そのたびに復活されたのは、やはり、その陰に奥さんの大きな支えがあったのですね。
息子は?
ところで、そんな渡さんと奥さんの間に誕生した息子さんは、両親(渡さんご夫婦)と同じ、青山学院大学に進まれたそうですが(青山学院初等部(小学校)から)、
大学卒業後は、芸能界には進まず、大手ゼネコンに就職されたそうです。(「鹿島建設」だと言われていますが、出どころは不明です)
そんな息子さんは、ずっと一人暮らしをされていたようですが、お父さん(渡さん)の病状を心配して、2014年頃には、渡さんの家から歩いて2分ほどのところにある一戸建てに引っ越しされたそうです。
実は、渡さんは、同年、自宅を全面バリアフリーにリフォームされているのですが、その際には、息子さんがリフォームを取り仕切られていたそうで、リフォーム中、渡さんは、息子さんの住む一戸建ての家で、息子さんと一緒に住んでいたそうです。
そして、リフォーム工事が終わると、渡さんは自宅に戻られたそうですが、仮住まいとしていた息子さんの一戸建ての家は建て替え、そのまま息子さんが住まれているとのことでした。
親孝行の息子さんに支えられながら、闘病生活を送られている渡さんですが、息子さんは、40代半ばになっても結婚されていないそうで、
渡さんは、
早く嫁さんをもらってほしい
孫を見たい
と、しょっしゅう、周囲にこぼしておられるとか。
ちなみに、渡さんの友人によると、
渡さんは息子さんのことを大事に育ててきた。一般社会で生きることを選んだ彼に迷惑をかけまいと、一切、息子さんの情報は明かしてこなかった。
彼が結婚しない理由はわかりませんけど、いちばんの親孝行は孫の顔を見せることですからね。渡さんも“孫を見るまでは”という気持ちで頑張っているんだと思います。
とのことですが、
まさに、孫の誕生を夢見て、厳しいリハビリを続けられているに違いありませんね。
さて、いかがでしたでしょうか。
渡さんの、
- 年齢は?出身は?身長は?本名は?
- 生い立ち
- 高校時代は石原裕次郎に憧れる不良少年
- スカウトで芸能界入り
- デビュー作「あばれ騎士道」で新人賞を受賞
- 日活のアクション・スターへ
- 「石原裕次郎2世」と呼ばれる
- 「日活」を退社し倒産寸前の「石原プロモーション」に入社
- 「石原プロモーション」の救世主に
- 「太陽にほえろ!」で石原裕次郎と共演
- 「松竹」「東宝」の映画や連続ドラマにも立て続けに出演
- NHK大河ドラマ「勝海舟」で主演も病気で途中降板
- シングル「くちなしの花」が大ヒット
- 東映からスカウトされるも病に倒れる
- 高倉健や菅原文太と共演する予定だった
- 「大都会」が大ヒット
- 「西部警察」のヒットで石原プロ社長に就任
- 日本テレビからテレビ朝日に鞍替え
- 「西部警察」がテレビ朝日で放送された理由とは?
- 石原裕次郎はテレビ朝日移籍に反対
- 小林専務(コマサ)が石原裕次郎を説得
- 石原裕次郎がテレビ朝日移籍を決断
- 5年で「石原プロモーション」を退社する予定だった
- 石原裕次郎の為に自らキャリアUPの道を封印
- 「西部警察」がNHK大河ドラマの裏で快進撃
- 石原裕次郎が病に倒れる
- 「西部警察PARTII」の成功で「石原プロモーション」は急成長
- 小林専務(コマサ)に不信感を抱き始める
- 小林専務(コマサ)は映画制作に反対していた?
- 石原裕次郎が「西部警察」終了を決断
- 小林専務(コマサ)のコメント
- 「西部警察」が終了
- 志半ばで石原裕次郎が死去
- 出演作品(映画)
- 出演作品(テレビドラマ)
- 石原プロの社長として
- マグロ
- 「紫綬褒章」「旭日小綬章」を受章
- 10億円プロジェクト「西部警察2003」の制作を発表
- 出演俳優が運転ミスで見物客に重軽傷を負わせる
- 渡哲也が土下座で謝罪
- 2時間ドラマ「西部警察 SPECIAL」として放送
- 渡哲也が「石原プロモーション」社長を辞任
- 社長辞任の本当の理由
- 専務・小林正彦との確執が原因
- 渡哲也が相談取締役へ
- 「石原プロモーション」解散?
- 「解散」については無言
- 石原裕次郎への思い
- 石原軍団は怒り心頭
- 石原まき子が「石原プロモーション」解散を否定
- 弟は渡瀬恒彦
- 渡哲也と渡瀬恒彦の兄弟共演は?
- 弟・渡瀬恒彦は兄・渡哲也を尊敬していた
- 弟・渡瀬恒彦が死去
- 兄弟の深い絆
- 吉永小百合と交際していた
- 順調な交際も~吉永小百合の両親が結婚を猛反対
- 破局理由は?
- 「松竹梅」のCMで吉永小百合と共演
- 嫁は?
- 病の真っ最中に子どもが誕生
- 父親がガンで死去
- 直腸ガンで人工肛門となったことを公表
- 度重なる闘病生活も妻が献身的な看病
- 息子は?
について、まとめてみました。
石原裕次郎さんの人柄に惹かれ、倒産寸前だった「石原プロモーション」に入社されると、石原さんとの二枚看板でテレビドラマ等で活躍し、
その後も、石原さんの映画制作という夢に尽力し、石原さんが亡くなった後も、石原さんの名を汚さないように、「石原プロモーション」を導くなど、生涯を懸けて石原さんに尽くしてこられた渡さん。
そろそろ、ご自身のことだけ考えられては・・・とも思われますが、そうされないところが渡さん。とにかく、お体を労り、末永くその姿を見せていてほしいものです。
「渡哲也の生い立ちは?若い頃は日活のアクションスターだった!」