尾崎士郎氏の自伝的小説「人生劇場」に憧れ、早稲田大学に入学するも、やりたいことが見いだせないまま、卒業見込みで「㈱電通PRセンター」に就職された、渡瀬恒彦(わたせ つねひこ)さん。しかし、その後、「東映」の岡田茂氏との出会いで人生が一変します。

「渡瀬恒彦の幼少期はガキ大将!中高時代も文武両道でモテモテだった!」からの続き

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「電通PRセンター」就職1ヶ月で「ジャパーク」に転職

大学在学中、やりたいことが見つからず、「㈱電通PRセンター」に就職された渡瀬さんですが、研修期間1ヶ月で会社を退職すると、先輩が設立した青山の広告代理店「ジャパーク」に転職。

その後、渡瀬さんは、「ジャパーク」で営業の仕事をされていたのですが、兄・渡哲也さんの知り合いが不動産屋を始めると急成長したため、休日になると宣伝スタッフとして、手伝いに行っていたそうです。

すると、そこで、たまたま「東映」の社員が居合わせ、

俳優にならないか?

と、声をかけられたそうで、

最初は躊躇したものの、「ジャパーク」の社長に相談したところ、

絶対マイナスにならないから

と、当時、「東映」の企画製作本部長だった岡田茂さんに会うことを勧められたのだそうです。

(たまたま、銀座をぶらぶらしていたところ、渡哲也さんの弟だとは知らずに、「東映」関係者に声をかけられ、岡田茂さんと会うことになった、という説も)

岡田茂にスカウトされて「東映」に入社

ただ、渡瀬さんは、映画はまるで興味がなく、兄の渡さんにも映画界入りを反対されており、そのうえ、「ジャパーク」はお給料が良く、仕事も面白くなってきていたことから、100%断るつもりで岡田さんに会いに行ったそうです。

(「東映」が、当時「日活」にいた渡さんを引き抜くための手段として、自分を利用しているとの懸念もあったそうです)

しかし、実際、岡田さんに会うと、

とにかく俺にまかせろ

などと、口説かれ、

渡瀬さんは、

会ってみたらほんとチャーミングというか、魅力的な人で、5年くらいは騙されてもいいかなって思った。

こういう人がいる世界なら一緒に仕事をしたい。30まで人生預けてみよう。一発ためしにやってみるか。

と、すっかり、岡田さんの人柄に魅了されたそうで、その場ですぐに俳優になる決意をされたのでした。

ちなみに、後年、渡瀬さんは、

昔は兄貴(渡哲也さん)より俺の方が、親からも親戚からも評価が高かった。大学も俺は早稲田で、兄貴は青学だって(笑)。それで兄貴が役者、俺がサラリーマンになったら、もらっている金がぜんぜん違う。それはプライドが許さん。

学生時代は、「君のお兄さん?」って聞かれるのが、兄貴が役者になると、「あっ弟さんですか」って。そりゃそうだよな。

と、兄・渡さんが役者として売れたことで立場が逆転したことや、体を鍛えていたためアクションには少し自信があったことも、俳優になった理由だったことを明かされています。

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「殺し屋人別帳」の主演で俳優デビュー

こうして、渡瀬さんは、1970年、「東映」に入社されるのですが、その数日後には、石井輝男監督作品「殺し屋人別帳」の主演が決定。

外部から迎えた若手俳優が「東映」で主役デビューするのは、大川橋蔵さん以来だったそうで、

岡田さんからはひとこと「やれっ」て。今までサラリーマンやってた奴が、何日か後に映画の主演をやるんですよ(笑)。まあすごい会社だよね。

演技の勉強もなく、京都に来て、先ずは監督の石井輝男さんと同じ部屋に泊めさせられた。それから毎朝、監督と一緒に起きて撮影所に来て、それでずーっと終わりまで撮影に付き合った。当然自分の出番なんか関係なしにね。

と、信じられないほどの好待遇で迎えられたのでした。

「渡瀬恒彦は新人時代からやんちゃで別格扱いだった!」に続く

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