少年時代には、お父さんが破産したうえ、お兄さん、お姉さん、お母さんが相次いで亡くなるという不幸に見舞われる中、歌舞伎役者への弟子入りから、見事、「剣戟王バンツマ」にまで登りつめ、さらには、命を懸けるほどの情熱を注ぎ、「無法松の一生」で一世一代の名演技を披露した、阪東妻三郎(ばんどう つまさぶろう)さんですが、ついに、激動の人生も幕を下ろすときが訪れます。
「阪東妻三郎の無法松の一生の出演は文字通り命がけだった!」からの続き
死因は脳内出血
阪東さんは、1953年7月2日、映画「あばれ獅子」の撮影中、持病の高血圧から体調を崩すと、同年7月7日、「脳内出血」により、51歳という若さで他界されているのですが、
長男の田村高廣さんは、阪東さんの死因について、
「無法松の一生」が遠因ではないか
それは凝り性の人でしたから、車の曳き方はどうであろうと、嵐山の近くの土手で走り方を研究しているうちに、風邪をひいて中耳炎になって、後遺症として脳種が残ったのではないか。と思います。
と、語っておられます。
「あばれ獅子」より。山田五十鈴さんと阪東さん。
実際、阪東さんは、「中耳炎」で倒れて入院し、「無法松の一生」のラスト、主人公・富島松五郎が雪の中で倒れるシーンでは、やむを得ず、殺陣師の久世竜さんを代役に立てられたそうで、
阪東さんは、稲垣監督に、
いい仕事ができて良かったですね
と、言いつつも、
だが、あの雪の場面が僕だったら、もっともっと良かったでしょう
と、悔しがったと言われています。
(このシーンが代役だと分かった者は誰もいなかったそうですが)
四男・田村亮のコメント
そして、四男の田村亮さんは、阪東さんが亡くなった日のことを、
昭和28年7月7日、私は京都の嵯峨小学校の教室で授業を受けていました。小学校1年生。すると、小使いさんが来て、前の戸を開けて担任の先生に何か耳打ちしてました。
そして小使いさんはいなくなり、先生は教壇に立って「田村君。すぐに家に帰りなさい。」と一言。私は訳も分からず教科書や筆箱をランドセルに仕舞って教室を出て行きました。
すると、校舎の玄関口の下駄箱の前にうちの番頭さんが立って待ってました。そこからブラブラ歩いて7~8分、途中アブラ蝉がミンミン喧しく鳴いていたのをやけに覚えてます。番頭さんはずーっと無言でした。
家に着いて「ただいま~」・・・家の中は静かでした。お手伝いさんが小走りに僕に駆け寄って「お帰りなさい」とも云わず無言で「奥に行きなさい」との仕種。
私は一人廊下を歩いて行くと、しばらくして奥の方から母の泣き声が聞こえてきました。母は座敷の隅に身を寄せて号泣してました。奥の座敷には白い布を顔に、父が寝てました。
私は涙も出ませんでした。初めて見た母の泣いている姿にただ戸惑うばかり。泣いている母の姿を見るのが幼い私には辛かった。
と、明かされています。
晩年はセリフを覚えるのに苦労していた
ちなみに、田村亮さんによると、阪東さんの晩年は、事務所のありとあらゆる壁に、墨でセリフが書かれた長い巻き紙が貼られていたそうで、
当時、亮さんは子どもだったため、なんとも思わなかったそうですが、阪東さんは、晩年、セリフが覚えにくくなって苦労し、みんなが帰った後、一人で、事務所の中を歩きながらセリフを覚えていたのでは、とも語っておられました。
「阪東妻三郎 発掘されたフィルムの謎~世界進出の夢と野望」
ところで、2015年8月、田村亮さんと、田村さんの長男・田村幸士さんが、都内で行われたWOWOWのドキュメンタリー番組「阪東妻三郎 発掘されたフィルムの謎~世界進出の夢と野望」のマスコミ試写会でのトークショーに出席されているのですが、
この番組を企画したのは、阪東さんの孫である田村幸士さんだそうで、
幸士さんが、
父と一緒に住んでいるときに(フィルムが)置いてあって、引越しする度に『どうしようか』となったんですけど、祖母が取っておいてくれたものなので、私の家で保管をすることになってから、阪東妻三郎という役者を知りたいなと思うようになりました。
と、きっかけを打ち明けると、
亮さんは、
(父・阪東さんは)役者としてだけではなく、自分で道を切り開いて活躍の場を作るということはすごいなと思っています。
七転び八起きじゃないですけど、落ちてもまた立ち上がってくるところがすごいし、母が言っていましたが、台本をもらったら部屋に閉じこもって、相手のセリフから全部覚えて、自分の長セリフの時間を計らせていたそうで、監督の気持ちにもなっているのかなと思ったりしました。親父の頭の中は想像がつかないですね。
時代劇に関して参考にさせてもらっているので、親父というよりは師匠ですね。立ち回りにしろ、着付けにしろ、写真が残っているので、それを見ながら参考にすることが多いです。
初めて知ったのでビックリしましたけど、世界進出の野望を持っていて、キッカケの一つがあのとき(京都に太秦撮影所を建設された時)だったのかも知れませんね。
親父が生きていたら、あのフィルムは絶対に人様に見せるなって言うかもしれない(笑)
と、阪東さんが、実力者を接待して頭を下げて見送る、営業マン的な姿など、知られざる阪東さんの一面を明かされていました。
「阪東妻三郎の妻は?息子は田村正和ほか田村4兄弟!婚外子も!」に続く
「阪東妻三郎 発掘されたフィルムの謎~世界進出の夢と野望」より。