映画スター阪東妻三郎さんの四男として誕生すると、兄の、田村高廣さん、田村正和さんとともに、長年、「田村3兄弟」として活躍されてきた、田村亮(たむら りょう)さん。今回は、そんな田村さんの生い立ちと俳優デビューの経緯についてご紹介します。

「田村亮(俳優)の兄は田村正和!他の3兄弟とは?父はバンツマ!」からの続き

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生い立ち

田村さんは、映画スターだったお父さん・阪東妻三郎さんの四男として京都で誕生すると、1000坪以上もある敷地の中に建てられたお屋敷の中で、何不自由なく裕福に育つのですが(庭にはテニスコートのほか、川まで流れていたそうです)、

田村さんが7歳の時には、お父さんが51歳で他界。8歳の時には、一家は、東京の世田谷区成城に転居したそうです。

(それでも、成城では数千坪の敷地に300坪の運動場がある豪邸に住んでいたそうです)

ちなみに、田村さんの一番の想い出は、お父さんの子煩悩ぶりだったそうで、

ふだん子どもと遊んでいないことへの名誉挽回かもしれないけど、「子どもの日」「お正月の餅つき」「節分の豆まき」などは一生懸命遊んでくれたんです。

時々、きれいな芸妓(げいこ)さんも参加して、華やかで楽しくてね、よく覚えています。

親父が当時の16ミリカメラで家族の様子を撮影するのが好きでした。去年(2014年)の10月に、我が家に置きっぱなしだった丸い缶に入ったフィルムや、親父が生前に撮った田村家の或る日の様子、親父の葬儀が記録された映像などを、劣化する前にと、京橋にあるフィルムセンターに依頼して修復して頂きました。

その映像を見ようと、田村家の親戚十数名が全員集まって鑑賞会を行いました。そこには昭和20年代の頃の私や正和兄の可愛い姿などが映っていて、その後の食事会で大いに話に花が咲きました。僕も可愛いかったんですよ(笑)

と、語っておられます。

また、幸せな少年時代を過ごしたこと、両親と兄・高廣さんのお墓があることから、京都は田村さんにとって特別で癒やされる土地なのだそうです。

「破れ太鼓」で俳優デビュー

その後、田村さんは成長し、1965年、高校3年生の時、NHKから、田村さんたち4兄弟に、お父さんの13回忌企画「破れ太鼓」の出演オファーが舞い込んだそうで、

このオファーに対し、長兄の高廣さんと三兄の正和さんは、すでに俳優だったこともあり、すぐ承諾されたそうですが、俳優ではなかった次兄の俊磨さんまで出演することになったことから、田村さんも、周囲から「お前も出ろよ」と言われ、

プロデューサーからも、「4人全員が出てくれると宣伝になるから出てくださいよ」と言われたそうで、田村さんも、お付き合いのつもりで出演を承諾。「破れ太鼓」で俳優デビューされています。


「破れ太鼓」より。(左から)長男・高廣さん、次男・俊磨さん、三男・正和さん、四男・亮さん。

ちなみに、田村さんは

何もわからないうちに終わっちゃいましたよ。もしビデオがあったとしても見たいと思わない。最悪だと思いますよ(笑)

と、語っておられました。

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「暴れ豪右衛門」に出演

このように、当時、田村さんは、俳優を続けるつもりはまったくなく、高校卒業後は大学へ進学されるのですが、翌1966年には、またまた、三船敏郎さん主演の「東宝」映画「暴れ豪右衛門」の出演オファーを受けます。

実は、稲垣浩監督が、三船さん主演で映画を撮ろうということになり、3兄弟の話だったため、長男は三船さん、次男は佐藤充さんと決まったものの、三男となる俳優が「東宝」にいなかったそうで、

阪東妻三郎さんと何度か一緒に仕事をされたことのある稲垣監督が、

阪妻さんのところにもう一人出てない子がいるから、あの子を引っ張ってこよう

と、田村さんを思い出し、

プロデューサーから田村さんに、

稲垣先生のたっての希望なので、どうですか

と、オファーが来たのでした。

ただ、俳優をするつもりがなかった田村さんは気が進まず、とりあえず、お母さんに相談されたそうですが、

お母さんは、

稲垣監督はうちのお父ちゃんといろいろご縁があった方だから、むげに断るわけにはいかないんじゃないの?

と、言われたそうで、

じゃあ大学に行っている間だけ契約します

と、田村さんは、条件付きで、「東宝」に入社されたのでした。

「田村亮(俳優)の若い頃は?デビューからの出演ドラマ映画を画像で!」に続く

「暴れ豪右衛門」より。

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