1949年、12歳の時、お兄さんが旗揚げしたアマチュア劇団の浮浪児役で初舞台を踏むと、中学生の時には、英語劇でお客さんにバカウケしたことがきっかけで、お芝居にのめり込んでいった、伊東四朗(いとう しろう)さん。それでも、高校卒業後は、貧しい家計を支えるため、就職する道を選ぶのですが・・・
「伊東四朗は少年時代からモノマネで人気者!喜劇に夢中だった!」からの続き
就職試験を受けるも面接でことごとく不合格になっていた
お芝居にのめり込むも、貧しい家計を支えるため、会社勤めをすることが親孝行だろうと考えた伊東さんは、高校卒業後は、就職試験を受けられたのですが、頬の傷のせいで人相が悪いとみなされ、ことごとく不合格に。
そこで、心配した友人が、身内が重役を務める大手製薬会社を紹介してくれたのですが・・・
形だけの就職試験だったにもかかわらず、なんと、面接で、「人相が悪い」とまさかの不合格となってしまったのだそうです。
早稲田大学の生協でアルバイトしながら芝居小屋に通う日々
これには、さすがに、伊東さんも、
コネがあるのに落ちるって、とさすがにこの顔を恨みました(笑)
と、落ち込み、
私はこれからどうやって生きていくんだろう
と、不安を感じたそうですが、
そんな矢先、早稲田大学の学生だったお兄さんが、早稲田の生協のアルバイトを紹介してくれたそうで、
平日は牛乳瓶のフタを開けるアルバイト(時給は30円と当時でも安かったそうです)、日曜日と祭日は東大の売店と食堂でアルバイトを掛け持ちされたそうで、そのかたわら、芝居(特に歌舞伎)をよく観に行かれたのだそうです。
(ちなみに、お金がなかったことから、はとバスの団体客にくっついて入るなど、インチキもされたそうで、必ず、歌舞伎座の前で記念撮影をしなければいけなかったことから、伊東さんが写っている写真を持っている人が世の中にはたくさんいるのでは、とのことでした(笑))
二代目尾上松綠の楽屋を突然訪ねアドバイスを受けていた
また、アルバイト仲間だった早稲田の初代落研会長と一緒に、漫才をしたり芝居を書いたりもしていたそうで、
ある日のこと、ファンだった歌舞伎の二代目尾上松綠(おのえしょうろく)さんにアドバイスをもらおうと、無謀にも、芝居の台本を持って、いきなり楽屋を訪ねたことがあったそうですが、
番頭さんに追い返されそうになるも、それを見た松綠さんが番頭をたしなめ、なんと、松綠さん自ら伊東さんたちを楽屋に通し、台本を見てくれたそうで、
いいか、君たちは楽しんでやりなさい。苦しんでやるのは我々プロ、アマチュアは楽しむこと
と、アドバイスをくれたのだとか。
さらに、松綠さんは、弟子の四代目坂東鶴之助(後の五代目中村富十郎)さんを呼び、女形の振り付けを教えるように指示されたそうで、伊東さんらは、鶴之助さんから女形についてのレクチャーを受けたそうで、伊東さんにとって、このことは、生涯忘れられない出来事となったのでした。