「スネークマンショー」では、「YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)」とのコラボーレーションアルバム「増殖」がヒットするなど、俳優以外の仕事で高く評価された、伊武雅刀(いぶ まさとう)さんですが、実は、ソロでも異色シングルを発売されています。
「伊武雅刀は昔スネークマンショーで大ヒット!YMOとコラボも!」からの続き
「子供達を責めないで」の歌詞は?
伊武さんは、1983年に、シングル「子供達を責めないで」を発売されています。
まずは、歌詞(作詞:秋元康)をご覧ください。
私は子供が嫌いです
子供は幼稚で礼儀知らずで気分屋で
前向きな姿勢と 無いものねだり
心変わりと 出来心で生きている
甘やかすとつけあがり 放ったらかすと悪のりする
オジンだ 入れ歯だ カツラだと
はっきり口に出して人をはやしたてる無神経さ
私ははっきりいって絶壁です
努力のそぶりも見せない 忍耐のかけらもない
人生の深みも 渋みも 何にも持っていない
そのくせ 下から見上げるようなあの態度
火事の時は足でまとい 離婚の時は悩みの種 いつも一家の問題児
そんなお荷物みたいな そんな宅急便みたいな そんな子供達が嫌いだ
私は思うのです
この世の中から子供がひとりもいなくなってくれたらと
大人だけの世の中ならどんなによいことでしょう
私は子供に生まれないでよかったと胸をなで下ろしています
私は子供が嫌いだ ウン!
子供が世の中のために何かしてくれたことがあるでしょうか
いいえ 子供は常に私達おとなの足を引っぱるだけです
身勝手で 足が臭い
ハンバーグ エビフライ カニしゅまい
コーラ 赤いウインナー カレーライス スパゲティナポリタン
好きなものしか食べたがらない 嫌いな物にはフタをする
泣けばすむと思っている所がズルイ 何でも食う子供も嫌いだ
スクスクと背ばかり高くなり
定職もなくブラブラしやがって
逃げ足が速く いつも強いものにつく
あの世間体を気にする目がいやだ
あの計算高い物欲しそうな目がいやだ 目が不愉快だ
何が天真爛漫だ 何が無邪気だ 何が星目がちな つぶらな瞳だ
そんな子供のために 私達おとなは 何もする必要はありませんよ
第一私達おとながそうやったところで ひとりでもお礼を言う子供がいますか
これだけ子供がいながらひとりとして 感謝する子供なんていないでしょう
だったらいいじゃないですか それならそれで けっこうだ
ありがとう ネ 私達おとなだけで 刹那的に生きましょう ネ
子供はきらいだ 子供は大嫌いだ 離せ 俺は大人だぞ
誰が何といおうと私は子供が嫌いだ 私は本当に子供が嫌いだ
異色シングル「子供達を責めないで」がヒット
いかがでしたでしょうか。
今では、炎上してしまいそうな、秋元康さんによる刺激の強い歌詞に、歌というよりは、子どもが嫌いなことと、子どもが嫌いな理由を、伊武さんがひたすらまじめな顔で演説しているこの歌は、子どもを責めた歌詞にもかかわらず、小中学生の間で人気を博し、オリコン最高21位を記録、30万枚を売り上げるヒットとなったのでした。
そして、2008年、伊武さんは、「子供達を責めないで」を含むアルバム「伊武のすべて」を発売されているのですが、そのライナーノーツで、1983年発売当時に、「子供達を責めないで」を聴いていたかつての子どもたちに向けて、
当時シャレの分からない大人達から本当に子供が嫌いなのかと問われた。シャレの分かる大人になった方々に今こそ是非聴いてもらいたい。私が本当に責めていたものが何だったのかを。
との言葉を残されています。
(この「子供達を責めないで」は、もともとは、サミー・ディビスJr.の「Don’t blame the children」が原曲で、「子どもたちが犯罪を犯してしまうのは、我々大人達にも原因があるのではないか」というメッセージが込められていたそうですが、そのままでは、おもしろくないので、秋元さんが逆説的に書き換えられたそうです)
「ウィークエンド・シャッフル」で念願の映画デビュー
こうして、これまで、低く響く渋い声が高く評価されてきた伊武さんでしたが、
でも、自分の中では(映画スターになるという目標から)「遠のいたな」という感覚が一番ありました。役者って、本来は全身を使ってなんぼのものですから。
声だけが評価されるというのは、あまり好きではありませんでした。心のどこかに「いつかは──」と思い続けていましたね。
と、不本意だったそうで、
そんな中、現在の所属事務所「パパドゥ」の社長から声をかけられ、「声の仕事を抑えて新たな気持ちで」を条件に、1982年、「ウィークエンド・シャッフル」で念願の映画デビューを果たされたのですが・・・
試写を見た時にゾッとしましたね。ダメだこりゃ、オーラがないというか、全く売れる要素がない、面白くもなんともない役者だなと思ったんです。夢にまで見た映画の1本目だったので、あの時は本当に怖くて落ち込みました。
と、自己評価は最悪。
それでも、その後、
1982年「汚れた英雄」
1983年「ションベン・ライダー」
1984年「晴れ、ときどき殺人」
1985年「ラブホテル」
「雪の断章 -情熱-」
「汚れた英雄」より。
など、当時、最も勢いのあった角川映画の、相米慎二さん、根岸吉太郎さん、井筒和幸さんら気鋭の若手監督に立て続けに起用されたことで、
基礎的なことですけれど、相当鍛えられましたよ。ただ役をつくってセリフをどう言うかということではなく、与えられた役の裏側にある人間性みたいなものが必要なんだって。
しかも相手があることだから、どう出てくるのかというキャッチボールもだんだん楽しくなってきた。自由な発想でできたのが凄く大きかった。
と、俳優としての土台を築かれると、以降、映画、テレビドラマに数多く出演され、硬軟自在の演技で存在感を放つ俳優として、高く評価されるようになったのでした。
https://www.youtube.com/watch?v=juyGxGJhx-E
当時は、広く受け入れられ、音楽番組「夜のヒットスタジオ」や、「オレたちひょうきん族」のコーナー「ひょうきんベストテン」でも披露されていました。(ただ、さすがに歌詞の一部は書き換えられたそうですが(笑))