少年時代、ウォルト・ディズニーのアニメや伊丹万作監督の「国士無双」を見て感銘を受けたことから、映画の道を志し、「J.O.スタヂオ」(後の東宝京都撮影所)に入社された、市川崑(いちかわ こん)さん。当初は、トーキー漫画部でアニメーターとして活動されていましたが、やがて、漫画部が閉鎖となると、実写映画に取り組むようになります。
「市川崑の若い頃はディズニー好きのアニメーターだった!」からの続き
助監督時代
市川さんは、1934年、他のアニメーターと共同で、アニメ「花より團子シリーズ」を制作されると、1936年には、脚本・作画・撮影・編集をすべて一人で行った、短編アニメ映画「新説カチカチ山」(6分)を発表されているのですが(この頃から「市川崑」名義で活動)、
ほどなくして漫画部が閉鎖となったことから、その後は、実写映画の助監督をし、伊丹万作監督、石田民三監督らに師事されます。
しかし、今度は、「東宝京都撮影所」自体が閉鎖してしまったことから、「東宝東京撮影所」に転勤し、中川信夫監督、青柳信雄監督、阿部豊監督の助監督を務められます。
また、1945年、太平洋戦争の末期には、実写作品ではなく、人形劇映画「娘道成寺」を制作されているのですが、制作が終戦をまたいだため、脚本が占領軍(GHQ)の事前検閲を受けていないとの理由から公開禁止となり、お蔵入りしてしまっています。
(市川さんは、二度、応召されているのですが、健康を害していた為、戦争には招集されなかったそうです)
「新説カチカチ山」
映画監督デビュー
そんな市川さんは、戦後は実写映画に活動の場を戻すと、この時期、「東宝争議」(東宝で発生した労働争議)により、「東宝」から新しく「新東宝」撮影所(東宝が配給)が設立されているのですが、
市川さんは、1948年、この「新東宝」で「花ひらく」で映画監督デビューされると、その後、
1948年「三百六十五夜」
1949年「人間模様」
1951年「夜来香」
「ブンガワンソロ」
など、主にメロドラマを手がけられます。
そして、労働争議が沈静した1951年には、「東宝」が再び映画制作を開始したことから、「東宝」に復帰されると、
1951年「結婚行進曲」
「盗まれた恋」
1952年「ラッキーさん」
「若い人」
「足にさわった女」
1953年「プーサン」
1954年「億万長者」
などの作品を発表されたのでした。
「ビルマの竪琴」で名監督の仲間入りをするも・・・
そして、1955年には、「日活」に移籍し、「ビルマの竪琴」を発表すると、翌年の1956年には、「ベネチア国際映画祭サン・ジョルジオ賞」を受賞するほか、1957年には、「アカデミー外国語映画賞」にもノミネートされ、一躍、名監督の仲間入りを果たされたのですが・・・
「ビルマの竪琴」より。
市川さんによると、「ビルマの竪琴」は、1956年の1月に公開される予定だったのですが、ビルマロケの許可がなかなか下りず、急きょ国内で撮影した前半を「第一部」(63分)として公開したそうで、
その後、1956年1月に、水島役の安井昌二さんのみが同行して一週間のビルマロケを撮影し(「第二部」(後半))、
同年2月、「完全版(第一部+第二部)」の「総集編」を公開する約束だったそうですが、
「日活」が、
すでに第一部のポジを何十本も焼いていてもったいない
と、クレームをつけてきて、
都市部では約束通り、2月は「総集編」のみの公開だったものの、それ以外の地方では「第一部+第二部」が公開されたそうで、このことが禍根となり、市川さんは「日活」を辞められたのでした。
「市川崑監督は犬神家の一族(金田一耕助)大ヒット時60歳を回っていた!」に続く