1964年、テレビドラマ「袋を渡せば」で、脚本家の橋田壽賀子さんと初めて一緒に仕事をして以来、実に60年以上に渡り、公私ともに親しくされている、石井ふく子(いしい ふくこ)さんですが、今回は、そんなお二人の出会いと大ヒットドラマのエピソードなどをご紹介します。
「石井ふく子は「ありがとう」で水前寺清子に美人じゃないからとオファーしていた?」からの続き
橋田壽賀子に「愛と死をみつめて」の脚本を依頼
石井さんといえば、数多くの作品で、脚本家の橋田壽賀子さんとコンビを組まれているのですが、石井さんは、1964年、「東芝日曜劇場」の「袋を渡せば」で、初めて橋田さんに脚本を依頼されると、
同年、同じく「東芝日曜劇場」で、骨肉腫に冒された女子学生・大島みち子さんとその恋人の3年間に及ぶ往復書簡を書籍化した「愛と死をみつめて」をドラマ化するにあたり、当時、脚本家として独り立ちしたばかりだった橋田さんに再び脚本を依頼されたそうです。
すると、橋田さんからは、電話帳くらい分厚い脚本を手渡されたそうで、どうみても、1時間の放送枠で収まりそうになかったため、
1時間枠なんだけれど
と、言うと、
橋田さんは、
でも切れません!
と、答えられたのだそうです。
スポンサーの「東芝」に直談判
そこで、石井さんは、試しにその脚本を読んでみると、確かに素晴らしい出来だったため、脚本を削るのではなく、2回に分けて放送しようと決意。
スポンサーの「東芝」のところに出向いて、
これは素晴らしいホンなので、前・後編でやらせてください
と、直談判されたのだそうです。
(石井さんは、大事な案件の時は、自らスポンサーのところに足を運んだそうです)
しかし、「東芝」は、
1時間でないと困る
と、石井さんの申し出を受け入れてくれなかったそうで、
石井さんが、開き直って、
ダメならナショナル劇場(※松下グループ提供)に持っていきます
と、本気とも冗談ともつかない脅しのようなものをかけると、
ライバル会社に企画を取られてはたまらないと慌てた「東芝」は、石井さんの熱意に根負けし、「東芝日曜劇場」初となる前・後編を了承したのだそうです。
「愛と死をみつめて」の大ヒットで橋田壽賀子が一躍脚光を浴びる
こうして、1964年、テレビドラマ「愛と死をみつめて」(4月12日、19日)が放送されると、恋人同士を演じた大空眞弓さんと山本學さんの熱演が視聴者の涙を誘い、ドラマは大ヒットを記録。
その後、このドラマは、1年間に4度も再放送されるほど、お茶の間の反響を呼び、橋田さんは、一躍、脚本家として脚光を浴びたのでした。
「愛と死をみつめて」より。山本學さんと大空眞弓さん。
橋田壽賀子との関係
ちなみに、橋田さんは、
「愛と死をみつめて」は、1時間枠のドラマですが、脚本は2時間分になってしまいました。でも、これ以上削ったら、作品に心がなくなると譲りませんでした。
石井さんも脚本を読んで納得して、局側に直談判してくださったんです。それは異例の前編、後編に分けて放送され、これが当たりました。
と、語っておられるのですが、
もちろん、
本当にすごいプロデューサーだと思いました。一生忘れません
これが放送作家としてなんとか食べていけるきっかけの作品になった。ふく子さんとの出会いがなかったら、とっくに脚本を書くことをあきらめ、他の仕事をしていたに違いない
私を見つけてくれた方。ふく子さんのおかげでホームドラマの脚本が書けるようになりました。作家としての命の恩人。主人よりも、両親よりも、生きる上で影響を与えてくださった方です
と、石井さんに感謝。
実は、橋田さんのご主人で、「TBS」のプロデューサーだった岩崎嘉一さんとの仲を取り持ったのも、石井さんだったそうで、
石井さんは、橋田・岩崎夫婦の結婚式の仲人を務められたほか、お二人の夫婦げんかの仲裁もされていたとのことで、橋田さんがいかに石井さんに全幅の信頼を寄せられているかが分かります。