幼い頃から歌が上手で、小学生の時、お姉さんと一緒に応募した「NHKのど自慢大会」で見事本選に合格すると、スカウトされて、「みすず児童合唱団」に入団し、童謡歌手として活動していた、倍賞千恵子(ばいしょう ちえこ)さんは、一旦は都立高校への進学を目指すも、倍賞さんの才能に気づいた両親により、さらに歌の世界へと進むことになります。

「倍賞千恵子は幼少期から童謡歌手として活動していた!」からの続き

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「松竹歌劇団(SKD)付属松竹音楽舞踊学校」に入学

「みすず児童合唱団」に入団し、童謡歌手として忙しい毎日を送っていた倍賞さんも、やがて、都立高校への進学を目指し、受験勉強に励むようになります。

ただ、(倍賞さんの才能を伸ばしてあげたい)両親の勧めで、「松竹歌劇団(SKD)付属松竹音楽舞踊学校」を受験することになると、当初、倍賞さんは、乗り気ではなかったそうですが、

いざ、試験会場に到着すると、定員の何十倍もの数の人がいたことから、自然と負けん気がわいてきたそうで、高校受験のことも忘れて試験に臨むと、あれよあれよと、1次、2次、そして最終の3次試験に合格。

倍賞さんは、1957年、中学卒業後、「松竹歌劇団(SKD)付属松竹音楽舞踊学校」に入学されたのでした。

「松竹歌劇団(SKD)」に13期生として入団

こうして、倍賞さんは、「松竹歌劇団(SKD)付属松竹音楽舞踊学校」で、歌に踊りにお芝居にと芸事に励む、忙しい毎日を送るのですが、

時々、(都電の運転士である)お父さんが運転する電車に乗ることができると(確率はものすごく低かったそうですが)、うれしいような恥ずかしいような気持ちになる一方、

頑張らないといけない

と、思ったそうで、

そんな努力の甲斐あってか、1960年、「松竹歌劇団(SKD)付属松竹音楽舞踊学校」を首席で卒業すると、同年4月、「松竹歌劇団(SKD)」に13期生として入団されたのでした。

「松竹歌劇団(SKD)」では厳しい規則

ところで、「松竹歌劇団(SKD)」では上下関係が厳しく、エレベーターは先輩が使うため、倍賞さんたち下級生はエレベーターに乗ることを許されず、着替えがたくさん入ったカゴを抱え、袖から袖、階段から階段へと走り回っていたほか、

ある時、倍賞さんが、舞台上で網タイツを履いていた脚を上げた瞬間、客席に靴を飛ばしてしまったことがあったそうですが、

ミスをすると、(それがほんのささいなミスであったとしても)舞台が終わった後、共演者全員の楽屋を訪ねて謝りに回らなければいけなかったそうで、

倍賞さんは、

もう泣きたくなってしまいます。あっさり許してくれる先輩もいました。けれど、無視して返事をしてもらえない先輩もいました。そんなSKDで、私は社会人としての常識もマナーも学んだような気がします。

と、語っておられました。

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「松竹」にスカウトされて映画デビュー

そんな倍賞さんは、同年、「東京踊り」で初舞台を踏むと、その際、初代バトンガール(鼓笛隊の指揮者)に起用され、本公演のフィナーレに、団員の先頭を切って浅草の国際劇場の大階段を歩いて下りる、という大役を、笑顔いっぱいで果たされているのですが、

その時の写真が雑誌に掲載され、新人女優を探していた「松竹」のスタッフの目に留まったそうで、撮影所でカメラテストを受けると、1961年には、映画「斑女(はんにょ)」の家出娘役で女優デビュー。


「斑女」より。山村聡さんと倍賞さん。

その後も、

1961年「水溜り」
     「雲がちぎれる時」

1962年「二人で歩いた幾春秋」
     「私たちの結婚」
     「泣いて笑った花嫁」

と、次々と映画に出演されたのでした。

「倍賞千恵子のデビュー当初は映画女優が嫌で嫌で仕方なかった!」に続く

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