ひょんなきっかけでアントニオ猪木さんと知り合うと、グループ交際を経て、猪木さんの猛プッシュで結婚された、倍賞美津子(ばいしょう みつこ)さんですが、結婚式の1ヶ月半後には、1億円の借金を背負うことに。それでも、二人三脚で乗り越えようとされていたのですが・・・
「倍賞美津子は元夫のアントニオ猪木と1億円の結婚式を挙げていた!」からの続き
アントニオ猪木が「日本プロレス」を追放されるも「新日本プロレス」を旗揚げ
当初は、ハワイで親しい人だけを招待し、2人だけの結婚式を挙げる予定が、アントニオ猪木さんの所属団体「日本プロレス」の申し出により、1億円の結婚式を挙げられた、倍賞さん・猪木さん夫婦ですが、
なんと、この結婚式から、たった1ヶ月半後には、猪木さんは、突然、「日本プロレス」から追放されてしまい、会社が負担してくれるはずだった結婚式の費用も払ってもらえなくなり、倍賞さん・猪木さん夫婦は、新婚そうそう、1億円の借金を背負うことになってしまいます。
というのも、この頃、猪木さんは、会社の乱脈経営を不満に思い、内部改革をしようと動いていたのですが、それが会社に発覚してしまったのでした。(日本プロレスクーデター未遂事件)
ただ、倍賞さんはというと、そんな猪木さんを、
あんたはおっちょこちょいね。式の費用を払ってもらってから会社と喧嘩すれば良かったのに。
と、笑い飛ばし、
よ~し、いいじゃない。あんた一人ぐらい私が食べさせてあげる。男は思い切りが肝心よ、私たちの力でやりましょう。
と、励まし続けたそうで、1972年には、新居の一戸建ての自宅を改造して道場にし、「新日本プロレス」を旗揚げされたのでした。
アントニオ猪木を金銭面でサポート
ちなみに、この頃、倍賞さんと猪木さんと倍賞さんの付き人の3人は、金策に奔走する日々だったそうですが、ある日のその帰り道、ラーメンでも食べて帰ろうということになり、お店に入って、ラーメンを3人分注文したそうですが・・・
倍賞さんが財布の中を確かめると、二人分のお金しかなかったそうで、倍賞さんは、あわてて、
自分はお腹が痛いから
と、一人分をキャンセル。
猪木さんと付き人が食べるのを黙って見ていたこともあったそうです。
(猪木さんは、金銭面で倍賞さんに頼りきりで一銭も持っていなかったそうです)
アントニオ猪木が「アントン・ハイセル」業に失敗し夫婦喧嘩の毎日
そんな倍賞さんのサポートもあって、その後、「新日本プロレス」は、「異種格闘技戦」の成功や「タイガーマスク」の登場で、プロレス黄金期を迎え、お二人の幸せもピークとなるのですが、
1980年代に入ると、猪木さんが副業としてブラジルで始めた「アントン・ハイセル」業(サトウキビの搾りかすを使ったリサイクル事業)が失敗し、負債はあっという間に数十億円に。
そして、このことが原因で夫婦喧嘩が絶えなくなったそうで、
当時、猪木さんの側近だった永島勝司氏は、
どこのプロレス会場だったか忘れたが、ミっちゃんが控え室にまで「冗談じゃないわよ!」と怒鳴り込んできた事があった。
彼女が個人的に貯めていた預金に猪木の親族が勝手に手をつけたことにより堪忍袋の緒が切れたのだ。「死んでやる!」と会場を飛び出した時は最悪の事態も有り得るかと思った…
と、証言されています。
倍賞美津子が萩原健一と不倫
さらに、1985年9月には、倍賞さんが俳優の萩原健一さんの自宅から一緒に出てくる姿が写真週刊誌「FRIDAY」にスクープされると、
(倍賞さんは、映画「恋文」での共演がきっかけで萩原さんと親密になったようですが、この映画では、萩原さんとラブシーンも演じられており、猪木さんが激怒したとも言われています)
ついに、
一緒にいることはもうお互いのためにならない
と、倍賞さんから切り出す形で、1988年、お二人は離婚されたのでした。
ちなみに、猪木さんは、後に、
借金に苦しむ私にはかつての勢いも魅力もなくなっていたのだろう。美津子は女優だし、その事を敏感に感じ取って心が揺れ始めたのだと思う…
と、明かされています。
アントニオ猪木は「戦友」
それでも、倍賞さんは、1998年の猪木さんの引退セレモニーには、花束を持って駆けつけたほか、2002年の「新日本プロレス」創立30周年の記念興行にも、サプライズゲストとして花束を持って駆けつけると、猪木さんと笑顔で固い握手をかわしており、過去のわだかまりはもうないようです。
それどころか、
猪木さんは、
新日本プロレス最大の功労者は倍賞美津子
と、倍賞さんを讃え、
魂の友人
と言い、
倍賞さんも猪木さんを、
戦友
と表現するなど、夫婦ではなくなったものの、お二人は固い絆で結ばれているようです。
「倍賞美津子の娘は猪木寛子!娘婿はアントニオ猪木の会社の取締役!」に続く
アントニオ猪木さんと倍賞さん。