1949年、お母さんの反対に遭いながらも、初の女性社員として「松竹」(大船撮影所脚本養成所)に入社した、橋田壽賀子 (はしだ すがこ) さんですが、男社会だったことから仕事がなく、ついに入社10年で退職。その後は、フリーの脚本家に転身されるのですが・・・
「橋田壽賀子は国語学者を目指していた!早稲田大では劇団で女優も!」からの続き
「松竹」では男社会の映画界で干される日々
「松竹」に入社するも、お母さんの反対で、採用された「大船撮影所脚本養成所」ではなく、地元の大阪に近い、「京都撮影所」に配属となった橋田さんは、
初仕事として、「長崎の鐘」(大庭秀雄監督・1950年公開)で、新藤兼人さん(後に映画監督)の助手を務められると、その後も、様々な脚本家の助手を務められたそうですが、
当時の映画界は完全な男社会で(建前上は男女平等を謳っていたのですが)、新人しかも女性である橋田さんへの風当たりはきつく、「女のくせに」と面と向かって言われるほか、橋田さんが書いた脚本は書き直され、セリフが一文字も残っていないこともあったそうで、実質、干されている状態だったそうです。
(映画はセリフよりも映像が重視されるため、橋田さんは自分には合わないとも感じていたそうです)
さらに、京都には昔ながらの徒弟制度が残っていたため、弟子入り先では、仕事だけではなく、配膳やお酌もさせられ、
板前も仕立屋も男の仕事。女がしゃしゃり出るところはない。
と平然と言う人もいたそうですが、
小間使いのような仕事ばかりさせられて、嫌気が差していた橋田さんは、
なんで私がお酌なんか
という態度だったため、全く可愛がられなかったそうです。
そんな生活が嫌で嫌で仕方なかった橋田さんは、
大船撮影所に戻りたい
と、「松竹」にお願いしながら、耐え続ける日々だったそうです。
「松竹」時代の橋田さん。(右から2人目)
「松竹」を退社
それでも、かわいがってくれる先輩もいたそうで、その先輩に目をかけられ、1952年には、「郷愁」(岸惠子さん主演)で、初めて単独で脚本を執筆することができたのですが・・・
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その後は、ほとんど脚本を執筆させてもらうことができず、
先輩の、
書けるようになるまで10年かかる
という言葉を信じて辛抱していたそうですが、
入社10年目の1959年、映画が斜陽になり、秘書室に異動させられそうになったことから、ついに橋田さんは「松竹」を退社されたのでした。
(ちなみに、「松竹」での10年間で書いた脚本は、たったの2、3本だったそうです)
少女小説・少女漫画で生計を立てながら旅行の日々
実は、この頃、橋田さんは、少女小説や少女漫画の原作も書いていたそうで(原稿料は「松竹」の給料より高かったそうです)、そんなアテもあり、
なんとなかなる
と、後先考えずに「松竹」を辞めてしまったのですが、
その後は、少女小説や少女漫画の原作を書いて生計を立てながら、お金を貯めては旅行されていたそうで、なんと、1年で200泊したこともあったとか。
ちなみに、橋田さんは、
つらいときこそ、その時間をどう使うかが大事。私はこのとき、いろいろな人生を垣間見ました
と、語っておられます。
当時の橋田さん(中央)。
「夫婦百景」でテレビドラマの脚本家デビューも・・・
しかし、その後、担当していた少女漫画が廃刊したことや、皇太子殿下と美智子さまのご成婚パレードのテレビ中継(1959年)を見て、これからはテレビの時代だと感じ、フリーの脚本家として、テレビドラマの脚本を書き、各テレビ局に売り込みを始めたそうですが、これがさっぱり。
ただ、そんなある日、以前、脚本を渡した日本テレビのプロデューサーに、
どうでしたか?
と聞くと、
預かっていた脚本を電車に忘れてきちゃった。ごめんね
と、言われたことから、
これは、チャンス到来と、(下書きを残していたことから)一晩で書き直して持っていったところ、プロデューサーも仕方なかったのか、初めて採用されたのだそうです。
しかも、その放送(昭和61年7月放送の「夫婦百景」シリーズ「クーデター女房」)を見た橋田さんは、自分が書いたセリフが一言も変えられていないことに感動したそうで、
(映画の場合は、監督が簡単にセリフを変えてしまうほか、俳優の都合でセリフを変えられてしまうことも日常茶飯事だったそうです。)
テレビでは脚本が大切にされる
これからはテレビだ
と、やる気になったのでした。
(当時は、「映画」が一流、「テレビ」は二流とされた時代でした)
しかし、その後は、3年間、ほとんど仕事をもらえなかったのだそうです。
「橋田壽賀子にとって石井ふく子との初対面は最悪だった!」に続く