男社会で実質干されている状態だったことから、映画会社「松竹」をたまらず10年で退職し、フリーの脚本家に転身するも、なかなか芽が出ずにいた、橋田壽賀子 (はしだ すがこ) さんは、1964年、運命の人となる、プロデューサーの石井ふく子さんと出会うのですが・・・当初の印象はかなり悪かったといいます。
「橋田壽賀子の若い頃は松竹!少女漫画の原作や少女小説も書いていた!」からの続き
石井ふく子との出会い
橋田さんといえば、数多くの作品で、プロデューサーの石井ふく子さんとコンビを組まれているのですが、橋田さんが石井さんと初めて顔合わせしたのは1964年でした。
その時点で、橋田さんがまだ駆け出しの脚本家だったのに対し、石井さんは、すでに「東芝日曜劇場」を100回以上も手掛けてTBSの看板番組に育てた、バリバリのプロデューサーだったことから、
橋田さんは、当時TBSにあった喫茶店で緊張しながら待っていると、石井さんは山田和也ディレクターと共にやってきたそうですが、
山田さんが、
この人に書いてもらいたいと思っています
と、橋田さんを紹介すると、
石井さんは、冷たく、
そう、わかりました。ご自分の好きなように書いてらっしゃい
と言っただけで、
後は、山田さんと局内の話ばかりして、立ち去ったのだそうです。
石井ふく子との初めてのドラマは「袋を渡せば」
また、その後の打ち合わせでも、石井さんは笑うでもなく淡々としていたそうですが、橋田さんが石井さんに「袋を渡せば」という原稿を渡すと、石井さんは、一読して、
今まで日曜劇場ではこういうのをやっていなかった。やりましょう
と即断してくれたそうです。
ただ、石井さんからは、あちこちダメ出しされたそうです。
石井ふく子から「愛と死をみつめて」の脚本を依頼される
すると、このドラマが好評を博したことから、同じ年、石井さんから、骨肉腫に冒された女子学生・大島みち子さんとその恋人の3年間に及ぶ往復書簡を書籍化した、ベストセラー「愛と死をみつめて」をドラマ化するにあたって、
これを脚色してみない? あなたにお任せするわ
と、脚本を依頼されたそうで、
橋田さんは、原作を読んだそうですが、じっくり書かないとつまらないオハナシになると思ったことから、自分が納得のいく長さの脚本を書いて、石井さんに渡すと、
(1時間枠のドラマにもかかわらず、2時間分もの(電話帳くらいの分厚さ)脚本を書いたそうです)
石井さんからは、
1時間枠なんだけれど
と、言われたそうですが、
橋田さんは、
でも切れません!
と、これ以上削ると、作品に心がなくなると思い、譲らなかったのだそうです。
石井ふく子が「東芝」に直談判してくれていた
すると、石井さんは、翌日、
やっぱり2時間いるわね
と言ってくれ、
難色を示すスポンサーの「東芝」のところに出向いて、
これは素晴らしいホンなので、前・後編でやらせてください
ダメならナショナル劇場(※松下グループ提供)に持っていきます
と、直談判してくれたそうで、「東芝日曜劇場」初となる前・後編が実現したのだそうです。
「愛と死をみつめて」の大ヒットで一躍脚光を浴びる
そして、1964年、テレビドラマ「愛と死をみつめて」(4月12日、19日)が放送されると、恋人同士を演じた大空眞弓さんと山本學さんの熱演が視聴者の涙を誘い、ドラマは大ヒットを記録。
「愛と死をみつめて」より。山本學さんと大空眞弓さん。
その後、1年間に4度も再放送されるほどお茶の間の反響を呼び、橋田さんは、一躍、テレビドラマの脚本家として知名度を上げられたのでした。
ちなみに、橋田さんは、
映画時代に身についたものが少しずつ剥がれていき、テレビドラマがどういうものかぼんやりとわかってきた。私より1歳下の石井さんに血を全部入れ替えてもらった気がした。
本当にすごいプロデューサーだと思いました。一生忘れません
これが放送作家としてなんとか食べていけるきっかけの作品になった。ふく子さんとの出会いがなかったら、とっくに脚本を書くことをあきらめ、他の仕事をしていたに違いない
私を見つけてくれた方。ふく子さんのおかげでホームドラマの脚本が書けるようになりました。作家としての命の恩人。主人よりも、両親よりも、生きる上で影響を与えてくださった方です
と、それ以来、石井さんにずっとついていこうと決心されたのだそうです。
「橋田壽賀子は昔サラリーマンと結婚し嫁姑問題を経験していた!」に続く
石井ふく子さん(左)と橋田さん(右)。