1964年、東芝日曜劇場「愛と死をみつめて」が大ヒットとなり、一躍、知名度を上げた、橋田壽賀子(はしだ すがこ)さんですが、その後は、なかなかヒット作に恵まれませんでした。ただ、そんな先行きの不安な中、収入の安定したサラリーマンと結婚されると、そこで経験した姑との出来事が突破口となります。
「橋田壽賀子にとって石井ふく子との初対面は最悪だった!」からの続き
ヒット作が出ず収入が安定したサラリーマンと結婚
1964年、プロデューサーの石井ふく子さんから脚本を依頼された、テレビドラマ「愛と死をみつめて」が大ヒットし、脚本家として一躍脚光を浴びた橋田さんは、以降、
1964~1967年「ただいま11人」
1964年 東芝日曜劇場「女の気持ち」
東芝日曜劇場「あたしとあなたのシリーズ1 ちっちゃな家庭」
東芝日曜劇場「五月の嵐」
1965年 東芝日曜劇場「ママ日曜でありがとう(第1部)」
東芝日曜劇場「ママ日曜でありがとう(第2部)」
東芝日曜劇場「あたしとあなたのシリーズ3 夫よりも妻よりも」
東芝日曜劇場「時間ですよ」
東芝日曜劇場「続・ママ日曜でありがとう」
東芝日曜劇場「芸術参加作品 菊の香高く」
「ママ日曜でありがとう」より。山内明さんと香川京子さん。
1966年 東芝日曜劇場「あゝ結婚」
東芝日曜劇場「あたしとあなたのシリーズ5 出番です…奥様」
東芝日曜劇場「あたしとあなたのシリーズ6 牛乳とブランディー」
東芝日曜劇場「ウーベの子守歌」
東芝日曜劇場「玉子の結婚」
東芝日曜劇場「続々・ママ日曜でありがとう」
「あたしとあなたのシリーズ6 牛乳とブランディー」より。
芦田伸介さんと池内淳子さん。
と、立て続けにTBSのテレビドラマで、脚本を執筆されるのですが・・・
「愛と死をみつめて」以降は、ヒット作が出ず、やがて、橋田さんは、脚本家としての自信を失い、この先食べていけるか将来に不安を抱えるようになったそうです。
嫁姑問題を経験するも・・・
そんな中、橋田さんは、1966年、41歳の時、TBSの企画課長だった岩崎嘉一さんと結婚。結婚後は、主婦業を優先しながら、仕事を続けられるのですが、
実は、橋田さんは、岩崎さんが次男だったことから、嫁姑の苦労はないだろうと思って結婚されたそうですが、いざ結婚すると、岩崎さんの意向で、実家の近くに家を建てることになったそうで、
ある時、お義母さんがご飯を食べに来て、
こんな薄味では食べられない
と、言われたことから、
橋田さんは、
塩分は控えめにしています
と、言い返したそうですが、
後に、岩崎さんの妹さんからは、
お姑さんが白い豆を黒と言ったら黒だと思って黙って聞きなさい。
と言われ、
お義母さんが、ご主人の兄弟に、
壽賀子さんは口答えする
と、陰で言っていたことを後で知ったのだそうです。
辛口ホームドラマ「となりの芝生」で人気に
ただ、ここで凹まないのが橋田さんの凄いところで、橋田さんは、この出来事で、これまで知らなかった新しい世界を発見した気分になったそうで、
(橋田さんは、母1人子1人で育った為、嫁姑の苦労を間近で見たことがありませんでした)
そんな自身の体験を元に、サラリーマン家庭での嫁姑問題を描いたテレビドラマ「となりの芝生」(1976年)を執筆し、これがNHKで放送されると、たちまち大きな反響を呼びます。
そして、これをきっかけに、その後は、
「おしん」(1983)
「おしん」より。小林綾子さんと泉ピン子さん。
「春日局」(1989)
「渡る世間は鬼ばかりシリーズ」(1990-2015)
「渡る世間は鬼ばかり」より。(左から)野村真美さん、
長山藍子さん、藤田朋子さん、中田喜子さん、泉ピン子さん。
などのヒットを飛ばし、橋田さんは、誰もが知る人気脚本家となられたのでした。
ちなみに、橋田さんは、
脚本を書くのに結婚がプラスになったのは間違いありません。「となりの芝生」なんて明るくない話は、普通は書けないテーマです。
妥協をせず冒険できたのは、サラリーマンである主人のおかげ。気に入らなければ降りればいいという気持ちで、自分の好きなものを書くようになったのがヒットにつながりました。
と、語っておられました。
橋田壽賀子脚本の朝ドラを安田成美が降板した本当の理由とは?に続く