結婚し、宝石会社「トキモト」で安定したサラリーマン生活を送るも、4年ぶりに、偶然出会った、柄本明さんやベンガルさんら昔の劇団仲間の活き活きした姿を見てショックを受け、会社を辞めた、高田純次(たかだ じゅんじ)さんですが、当初は、相当、ハードな生活を送られたといいます。
「高田純次は昔宝石会社「トキモト」の会社員だった!」からの続き
「東京乾電池」に参加
柄本明さんやベンガルさんら昔の劇団仲間の活き活きした姿を見て、たまらず、会社を辞めた高田さんは、1977年、「東京乾電池」に参加し、「幸せ色は僕のもの、不幸せ色は君のもの」で、久しぶりに舞台を踏んだそうですが、
これが調子よくてね。「アサヒグラフ」が取材に来たり、「11PM」に映ったりしました。その公演は新大久保の小さな劇場だったんだけど、そのあとに照明の日高さんって方が渋谷ジァン・ジァンを紹介してくれたんです。
ジァン・ジァンは、1回やって客の入りがよければ、また出させてくれるって話だったの。それが意外とお客さんが入ったんで、定期的に公演をやらせてもらえるようになりました。
と、早々に手応えを感じられたそうです。
演劇活動のかたわらハードなアルバイト
ただ、「東京乾電池」の公演(年3回くらい)の合間は、奥さんと子どもを養うため、アルバイトの毎日だったそうで、
夕方5時まで稽古をすると、6時には工事現場に行き、そこから朝まで水道管工事などの肉体労働、その後、家に帰って午前11時くらいまで寝ると、正午には稽古場、という超ハードスケジュールだったそうです。
また、4トントラックを運転できた高田さんは、トラックの運転手をしていたこともあり、アスファルトの材料を、神奈川県・川崎市まで取りに行っていたそうですが、夜中に出来る1時間の仮眠を、場所がなかったことから、道路で寝ていたとのこと。
(道路は昼間の熱で意外と暖かく、気持ち良かったそうですが、冬は冷たく、ともてキツかったそうです(笑))
ただ、ある日のこと、1時間の仮眠のところ、3時間も寝てしまったことがあったそうで、クビになってしまったそうです。
ちなみに、高田さんは、こんな思いまでして、「東京乾電池」を続けられた理由を、
情熱はあんまりなかったかな。ただ、面白かったんですよ、東京乾電池で芝居やってることが。新しいことやってるんだっていう自負もあったし、お客さんの目の前で舞台に立つのも面白かった。
貯金はすぐに使い果たしちゃったけど、もう少し続けたい、もう少しやりたいって、アルバイトしながらやってましたね。乾電池にいた10年間は、ほんと楽しかった
と、明かされていました。
「東京乾電池」の舞台より。ベンガルさんと高田さん。
「東京乾電池」の舞台より。高田さんと柄本明さん。
「東京乾電池」として「笑ってる場合ですよ!」で人気を博す
そんな高田さんは、「東京乾電池」のお芝居で徐々に頭角をあらわしていき、1979年、32歳の時、「笑点」でテレビデビューすると、
翌年の1980年には、「東京乾電池」のベンガルさん、綾田俊樹さんらとともに、バラエティ番組「笑ってる場合ですよ!」の、時事ネタをコント仕立てで紹介する3分間くらいのワンコーナー「日刊乾電池ニュース」で初のレギュラーに抜擢。
すると、高田さんたちはたちまち人気を博し、「東京乾電池」の名は、瞬く間に広く知られることになったのでした。
「笑ってる場合ですよ!」出演時の高田さん。
当初「日刊乾電池ニュース」は全くウケなかった
ただ、高田さんによると、この「日刊乾電池ニュース」は、初のレギュラーで、なおかつ生放送だったため、かなり力が入ったそうで、メンバーを掴むコントでは、あまりにも力が入りすぎて、血が出たほどだったそうですが、
時事ネタだっため、朝に作家さんたちからたたき台をもらい、控室で稽古をするも、リハーサルをする時間がなく、お昼すぎにはすぐに本番になるため、カメラマンが動きを分からず、俯瞰(ふかん=高いところから撮影すること)でしか映すことができなかったそうです。
そんなこともあり、当初はお客さんにまったくウケず、当時のプロデューサーだった、横沢彪(よこざわ たけし)さんも、
かわいそうだから1クールでやめさせよう
と、話すほどだったそうですが、
2ヶ月過ぎたあたりからは、次第に、お客さんの反応がよくなってきたそうで、
ついには、横沢さんに、
お前たちのコーナー、一番視聴率いいぞ
と、言われるまでになり、クビにならずに続けることができたのだそうです。
「高田純次は「オレたちひょうきん族」のブラックデビルだった!」に続く
(左から)綾田俊樹さん、ベンガルさん、小形雄二さん、高田さん。