東京大空襲に遭い、一家で岡山に疎開した、倉本聰(くらもと そう)さんですが、疎開先での生活は存外楽しく、のびのびと暮らしたそうで、終戦後、東京に戻ると、いよいよ演劇の楽しさに目覚めます。
「倉本聰は少年時代に東京大空襲から生き残っていた!」からの続き
疎開先では楽しい自給自足の生活
東京大空襲がいよいよ激しくなったことから、父方の本家がある岡山県金光町(現在の浅口市)に疎開された倉本さん一家ですが、疎開先で借りた家は、長い間無人だった廃屋だったことから、蜘蛛の巣、虫の死骸、ねずみのフンだらけのひどい状態だったそうで、家族全員で掃除や補修をしたそうですが、まだ10歳だった倉本さんにとっては、とても楽しい作業だったそうです。(ほとんど役には立てなかったそうですが)
また、引っ越してきた当日、食料を調達するため、お父さんに連れられて山に入ると、春の山菜や野草があったそうで、
お父さんは、
これは毒なんだ
これはうまいぞ
と、言いながら、とても生き生きとしており、翌朝、お母さんが、その山菜やきのこでお味噌汁を作ってくれたそうですが、それがとてもおいしかったそうです。
「北の国から」の草太兄ちゃんのモデルとの出会い
また、倉本さんは、近所に住む、「柿本のひっちゃん」と呼ばれている18歳くらいの猟師のお兄ちゃんと仲良くなったそうですが、
このお兄ちゃんは、タヌキやウサギを鉄砲で撃って持ってきてくれるほか、山で生きる動物たちの生態、山で暮らす知恵や自然の恵みと厳しさを、理屈ではなく体験で教えてくれたそうで、幼い倉本さんには、そんな強くて優しいお兄ちゃんがとてもかっこよく思えたそうです。
(テレビドラマ「北の国から」の「草太兄ちゃん」のモデルはこのお兄ちゃんだそうです。)
「北の国から」より。草太兄ちゃん(岩城滉一さん)と純(吉岡秀隆さん)。
そんな倉本さんは、この疎開先で、金光国民学校(分校)5年生に編入したそうですが、分校の生徒たちはみな素朴で明るく、意地悪されることもなく、再び、のびのびと暮らしたのだそうです。
10歳の時に校庭で玉音放送を聞く
そして、1945年8月15日、倉本さん(10歳)は、分校の校庭で玉音放送(天皇の肉声の放送)を聞いたそうで、言葉ははっきり聞き取れたそうですが、意味が分からずにいると、先生たちがうわっと泣き出したそうで、それを見て、日本が戦争に負けたと悟ったそうです。
また、同時に、玉音放送には「負けた」や「降参した」などという言葉がなかったにもかかわらず、負けたことが理解できる大人の国語力はすごいと感心したのだそうです。
終戦後は再び東京に戻る
その後、1946年3月、倉本さん一家は、金光を引き払い、東京の善福寺に戻ったそうですが、その頃、巷(ちまた)では、「進駐軍に、男は去勢され、女は暴行される」という噂が流れていたそうですが、実際には、アメリカ兵は、ガムやチョコレートをくれるなど親切だったそうで、倉本さんは、すぐにアメリカ兵が好きになったのだそうです。
中学時代に演劇の楽しさを知る
そんな倉本さんは、教育熱心だったお母さんに尻をたたかれる形で、旧制第一中学(現在の日比谷高校)を目指し、受験勉強に励んだそうですが、学制が変わって越境受験できなくなったことから、中高一貫の男子校・麻布中学を受けると、見事合格。
すると、麻布中学校は演劇が盛んな学校だったことから、倉本さんは演劇に興味を持つようになったそうで、小学校の卒業公演で、「ハムレット」(坪内逍遥訳)の悪役・クローディアスを演じられると、セリフは文語調で難しかったそうですが、この時初めて、演じることの楽しさを知ったのだそうです。
(上級生には、フランキー堺さん、小沢昭一さん、仲谷昇さんがおられたそうです。)
ただ、倉本さんは、演じることよりも書くことが好きだったそうで、演劇部の手伝いをしつつも、学内誌「言論」を編集するサークル「言論部」に入り、学童疎開の体験を小説に書くなど、創作活動を始められたのだそうです。
麻布中学時代の倉本さん。