お母さんのたっての希望だった東京大学に、2浪の末、合格した、倉本聰(くらもと そう)さんですが、東京大学入学後は、とことん演劇にのめり込み、早くも、在学中に脚本家デビューされます。
「俳優座」のスタジオ劇団「仲間」の文芸部に入部
2浪の末、ようやく東京大学に入学することができた倉本さんですが、入学後はというと、学業そっちのけで、映画や演劇に入れ込み、お芝居の脚本を書くため、「俳優座」のスタジオ劇団「仲間」の文芸部に入部されます。
とはいえ、まずは雑用係からのスタートだったそうですが、稽古場では、主宰者の中村俊一さんが指揮する演出に感銘を受けたそうで、お芝居を創る現場に身を置いているだけで、テンションが上がったそうです。
浅利慶太の「劇団四季」を受験して不合格になっていた
ちなみに、倉本さんは、劇団「仲間」に入る前には、「劇団四季」も受験されていたそうですが、文芸部志望にもかかわらず、演技試験(パントマイム)もあり、
(パントマイムの意味が分からず、隣の受験生に聞くと、ジェスチャーのことだと教えてくれたそうです。)
また、その設定というのが、「あなたは死の世界にいます。そこで美しく咲き乱れる花々を愛(め)でています」というものだったそうで、倉本さんは、汗だくになりながら必死で演技したそうですが、不合格となったそうで、
後に、倉本さんは、日経新聞「私の履歴書」で、
僕より2つ年長なだけなのに劇団代表の浅利慶太さんの目の前で、みっともない姿を見せたのだ。僕は根に持つ質(たち)だから浅利さんをずっと恨んでいた。
というのは冗談だが、脚本家になってからも何だか近寄りがたかった。もっとも浅利さんが覚えているはずはない。
と、綴っておられます。
大学2年の時にラジオドラマ「鹿火」で脚本家デビュー
さておき、倉本さんは、大学1年生の時、「雲の涯(はて)」という脚本を手がけ、演劇好きの仲間と一緒に、秋の駒場祭で劇を上演されたそうですが、
(演出は、後の映画監督・中島貞夫さんだったそうです)
その後、大学へはほとんど行かず、アルバイトをしながら劇団「仲間」に通っていたそうで、
劇団が旅公演中は、倉本さんは学生だったことからついていくことはできなかったそうですが、それでも、脚本の習作は書き続けたそうで、大学2年生の時には、ついに、青森放送のラジオドラマ「鹿火」で脚本家デビューされたのでした。
フジテレビに就職を希望するもニッポン放送に採用が決定
そして、やがて、就職を考える時期になった倉本さんは、当時、テレビが、黎明(れいめい)期だったことから、まぶしく、きらきらしたものに思え、テレビ局で働きたいと思うようになったそうで、倉本さんが大学を卒業する年の1953年3月に開局予定だった「フジテレビ」に入社を希望していたそうですが、
ちょうど、倉本さんが、アルバイトとして家庭教師をしていた先の男の子が、無事、麻布中学校に合格したそうで、これに感謝した日本橋の古美術商である父親が、倉本さんのフジテレビ入社志望を知り、フジサンケイグループ会議議長である鹿内信隆さんがひいきにしている八重洲の料亭の女将さんを(一筆したためて)紹介してくれたそうで、
倉本さんは、わらにもすがる思いで、お母さんと一緒に、菓子折りを下げて、その女将さんに挨拶に伺ったのだそうです。
そして、「フジテレビ」の入社試験は、フジに出資したラジオ局である、「文化放送」と「ニッポン放送」の入社試験も合同で行われたそうで、志願者が殺到したそうですが、そんな中、倉本さんは、難関を突破して合格されたのでした。
(採用されたのは、「フジテレビ」(テレビ局)ではなく、「ニッポン放送」(ラジオ局)だったそうですが)
ちなみに、鹿内さんのコネが利いたのかは、いまだに分からないそうです(笑)
中島貞夫(後の映画監督)の協力で東京大学を無事に卒業
なにはともあれ、こうして、ニッポン放送への入社が叶った倉本さんですが・・・映画や演劇に夢中で、ろくに勉強していなかったことから、そもそも、大学を卒業できるか危ぶまれる状態。
そこで、大学卒業試験に向けて、親友・中島貞夫さんの実家に泊まり込んで勉強を教えてもらいながら、勉強に励むと(試験の時も中島さんの隣に座ったそうです)、その甲斐あって、1959年3月、無事、東京大学を卒業することができたのだそうです。
(中島さんは、在学中、「ギリシャ悲劇研究会」などで活躍していたそうですが、学業も優秀で、この時、すでに「東映」への入社が決まっていたそうです)
「倉本聰は昔ラジオ局時代に誤って未放送分の録音テープを消去していた!」に続く