1977年秋に北海道・富良野に移住すると、当初は北海道の大自然の厳しさに苦しむも、やがて現地の人たちと親しくなり、自然の中で生きる知恵を知って感銘を受けたという、倉本聰(くらもと そう)さんですが、そんな富良野生活の経験から、大ヒットドラマが誕生します。
「倉本聰は好んで札幌から過疎の富良野に移住していた!」からの続き
テレビドラマ「北の国から」が高視聴率を記録
倉本さんは、富良野に移住して3年目の1980年、プロデューサーから、
東京の人がイメージする北海道のドラマを書いてくれませんか
と、頼まれたそうですが、
ふざけるな!
と、怒りが湧いてきたそうで、
北海道の人が見て、本当の北海道だと感じるドラマを書きたい
と、テレビドラマ「北の国から」の脚本を執筆されると、1981年10月から翌年1982年の3月まで放送された24話は高視聴率を記録。
「北の国から」より。(左から)吉岡秀隆さん、竹下景子さん、田中邦衛さん、中嶋朋子さん。
そして、その後も、
「北の国から’83 冬」より。(左から)吉岡秀隆さん、中嶋朋子さん、田中邦衛さん
「北の国から’87 初恋」より。横山めぐみさんと吉岡秀隆さん。
「北の国から’89 帰郷」より。緒形直人さんと中嶋朋子さん。
「北の国から’92 巣立ち」より。吉岡秀隆さんと裕木奈江さん。
「北の国から’95 秘密」より。(左から)吉岡秀隆さん、宮沢リえさん、田中邦衛さん。
「北の国から’98 時代」より。吉岡秀隆さんと宮沢リえさん。
「北の国から2002 遺言」より。(左から)中嶋朋子さん、吉岡秀隆さん、田中邦衛さん。
など、2002年まで21年間で8話のスペシャルドラマが放送されると、たびたび、視聴率が30%を超えるなど、国民的ドラマとして、高い人気を誇りました。
テレビドラマ「北の国から」の魅力
ちなみに、物語は、主人公の黒板五郎(田中邦衛さん)が息子の純(吉岡秀隆さん)と娘の蛍(中嶋朋子さん)を連れ、東京から地元・富良野に戻ってきたところから始まると、
電気も水道もない原始的な生活に、純が度々不平をこぼすも、やがて、五郎が風力発電で電気をおこし、沢から水をひくなどする中で、家族の絆が深くなる様子などが描かれており、倉本さんの幼い頃や富良野での体験が反映された内容になっているのですが、
「北の国から」のプロデューサーを務めた、現・上智大学教授の碓井広義さんは、
ドラマが始まった’80年代初めは、やがてバブルに至る景気のいい時代ですが、世の中の浮かれ調子とは真逆の方向に五郎さん一家は進んでいった。それがすごく新鮮で、驚きでもありました。
泣いたり笑ったり楽しく見せてくれながら、倉本先生は本質的なテーマを奥のほうに潜ませているんですよね。本当に人間にとって何が大切なのか。お金より、ときに1杯の水が大事だったりするとか。もう、ずるいくらい上手だから(笑)、非常に厚みのある奥深いドラマになっていたんです
倉本先生は登場人物を履歴書から作るんです。いつどこで生まれて、どんな子ども時代を過ごし、どんな友達がいて社会に出てどんな体験をしてきたのか。
あそこまで徹底的に掘り下げる脚本家はほかにいないですよ。だから、うわべだけの人間は出てこないしウソくさくないんですよ
と、「北の国から」を絶賛されています。
テレビドラマ「北の国から」のセットが公開
ちなみに、物語の舞台である、富良野市郊外の麓郷地区には、ドラマの中で五郎が作った小屋など、ロケで使った施設が保存され、2003年にオープンしているのですが、
「ふらの観光協会」の北島範男さんによると、同年には、1日最高で1万人の来訪者があったほか、年間40万人もの来訪者があったそうで、
富良野は、もともとスキーの町だったそうですが、ドラマのおかげで、きれいな街であることが日本全国に知れわたり、2002年にドラマが終了した後も、年間15万人が訪れるなど、変わらず、高い人気を誇っているそうです。
また、JR富良野駅近くにある「北の国から資料館」には、平成26年度は2万人が訪れたそうで、涙を流しながら見入る熱烈なファンもいたとのこと。
ちなみに、倉本さんの作品である、「優しい時間」(2005)や「風のガーデン」(2008)で舞台になった喫茶店やガーデンも富良野の人気スポットになっているのだそうです。
「北の国から」のセット
富良野塾
ところで、倉本さんは、「北の国から」を見た若者たちから、「芝居を学びたい」との手紙をたくさん受け取ったそうで、そんな若者たちの熱意に打たれ、1984年、富良野市布礼別に、私財を投じて、次世代を担う若手俳優や脚本家を養成する「富良野塾」を開設されています。
そして、その気になる内容ですが、受講料は無料ながら、2年間共同生活を送る中で、廃屋を自分たちで改修し、夏場は、地元の農協や農家などから依頼される農作業や炭焼などで1年分の生活費を稼ぎつつ、冬の集中講義「ふらの演劇工場」で行われる演劇公演に向けた稽古を行い、
年に1回は、電気・水道・ガスなど現代文明に頼らない生活を体験する「原始の日」が設けられるほか、新しいものを生み出すため、「前例にないから」と「そうは言っても」という言葉を使うことを禁止するなど、とてもオリジナルな内容となっていたそうです。
倉本聰 界隈
ただ、そんな「富良野塾」も、倉本さんが体力の限界を感じ、2010年4月4日、25期生が卒業したのを最後に閉塾。
(26年間で卒業生は380名超。そのうち3分の1が脚本家や俳優として活動されているそうです。)
その後は、卒業生らを中止とした「富良野GROUP」を旗揚げし、今も定期的に公演を続けられているほか、
「富良野塾」で演劇を学ぶ塾生たちに繰り返し教えてこられた、倉本さんの「思い」を伝えるため、ホームページ「倉本聰 界隈」で、
僕らの仕事は人を愛することから始まる
僕らの務めは、世に売れることでも、栄誉を得ることでもない。純粋に人の心を感動させ、人々の魂を洗い流すことである
など、倉本さんの熱い想いが伝わる語録が紹介されています。