子どもの頃に「宝塚歌劇団」の京都公演「ピノチオ」を観て、役者が全員女性だということを知り、たちまち「宝塚歌劇団」の虜(とりこ)になった、浜村淳(はまむら じゅん)さんですが、同時に映画にも魅了されていたそうです。

「浜村淳は幼少期から「宝塚歌劇団」の大ファンだった!」からの続き

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2歳で養子に出されていた

浜村さんは、若狭街道に面した、日本的な風景が広がる京都市北区鷹峯(たかがみね)で誕生すると、2歳の時、家庭の事情から養子に出されるのですが、大学入学手続きの際に戸籍謄本を京都市役所に取りに行くまで、自分が養子であることを知らなかったそうです。

(そのため、浜村さんの本名「塩濱」は養父母の苗字)

ただ、育てのお母さんは、浜村さんが小学校1年生の時から大学を卒業するまで、毎朝欠かさず家の表に立って、学校へ行く浜村さんを見送ってくれるなど、とても愛情深く育ててくれ、

近所の人や学校の先生もとても優しく接してくれたことから、自分が実子ではないかもしれないことはうすうす感じていたそうです。


幼い頃の浜村さん。

幼少期に映画の撮影を観て映画に夢中になる

そんな浜村さんが子どもの頃は、時代劇が黄金期だったことから、浜村さんの住む京都市北区鷹峯では、時代劇のロケ隊が3日に1回は来て、時代劇の撮影をやっていたそうで、

きょうも活動写真(映画)のタネ撮りに来ているぞー
(※土地の人はロケの撮影のことを「タネ撮り」と呼んでいたそうです)

と言う声を聞き、浜村さんら子どもたちがカバンを放り投げて見に行くと、そこには、阪東妻三郎さん、嵐寛寿郎さん、片岡千恵蔵さん、市川右太衛門さんなど大スターのオンパレード。

そんな憧れの大スターの姿を3日に1回も観ることができたため、浜村さんは、自然と映画に夢中になったそうです。

そして、撮影が終わって映画が公開されると、映画館へ観に行き、

あの映画、○○の家が映っているぞ

××の田んぼが映っているぞ

などと言って喜んでいたそうで、ますます映画が好きになっていったのだそうです。

子供ながらに黒澤明監督作品「姿三四郎」に好感を抱いていた

また、浜村さんは、8歳の時、京都にある映画館「昭和館」で、黒澤明監督作品「姿三四郎」(1943年=黒澤監督が助監督から監督へと出世した第1作目)を観たそうですが、

当時、太平洋戦争の真っ最中で、何が何でも敵に勝とうと声高に叫ぶ映画ばかりだった中、柔道に青春の全てをささげた若者の純粋な生き方を描いたこの作品に、

浜村さんは、子ども心にも、

映画っていいもんだな

と、思われたのだそうです。


「姿三四郎」より。藤田進さんと志村喬さん。

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近所のおばあちゃんから新選組・沖田総司の話を何度も聞いていた

ちなみに、浜村さんの家の近所には、「新撰組」の隊士を直接知っているという、80歳を過ぎたおばあちゃんが住んでいて、

浜村さんら子どもたちが集まってくると、

沖田(沖田総司)はんはな、新撰組一番の剣の使い手どしたんや。せやけどお子さんと遊ぶのがお好きどして、いつもうちらを集めて石蹴り、かくれんぼ、鬼ごっこやってはったんどすえ

西本願寺の銀杏の葉が、沈む夕日に黄金色に染まる頃な、さいなら沖田はん、また明日あそびましょうと言って別れていったんやで

という話を、ぽつりぽつりと幾度となく語ってくれたそうですが、

浜村さんは、古都・京都ならではのこの幻想的な話を今でも鮮明に記憶しているそうで、そんな環境の中、すくすくと育ったのでした。

「浜村淳は大学時代ジャズ喫茶で司会や映画解説のアルバイトをしていた!」に続く

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