銀座を出禁になったことから、渋谷に新天地を見出そうと、わざと不良少年グループにケンカをふっかけたことがきっかけで、「安藤組」の大幹部・花形敬さんと出会い、幼い頃に憧れた役者を目指そうと決心したなべおさみさんですが、その後、ひょんなことで運命が思わぬ方向に動き出します。
「なべおさみは安藤組幹部の花形敬と出会い足を洗っていた!」からの続き
明治大学に入学
「池の二郎」さんと「安藤組」の花形敬さん、二人のヤクザから大学に行くことを勧められ、幼い頃に憧れた役者になろうと決意したなべさんは、まずはと、必死の勉強の末、明治大学を受験し、見事合格。
すると、大学入学から2ヶ月ほど経った1958年6月11日、朝刊の「安藤組が東洋郵船社長・横井英樹氏を襲撃」という見出しを見たそうで、
敬愛する花形敬さんが心配で居ても立っても居られず、少し落ち着いた頃、事件のあった現場(「第二千成ビル」の8階にあった横井氏の事務所)だけでも見ようと、銀座に駆けつけたそうです。
「三木トリロー音楽事務所」にコメディアンとして弟子入りを希望する
そして、「第二千成ビル」に行き、エレベーターで8階まで上がると、横井氏の事務所の黒々とした鉄のドアの前に到着したそうですが、
しばらく佇んだ後、帰ろうと、階段をゆっくりゆっくり歩いて降りていると、事務所のドアが目に飛び込んできたそうで、
(そのドアには、「三木トリロー音楽事務所」「音楽工房」「冗談工房」「作詞工房」「三芸社」などと書かれていたそうです)
ほとんど無意識でドアを開けると、
御免くださーい
と、大声を出したのだそうです。
すると、中から女性が出て来たことから、
これまた、大声で、
ここで私を、コメディアンにしてくれませんか?
と、言ったそうですが、
アンタ、役者になる程の美男子でもないし、喜劇人になる程変わった顔してないよ!
と、追い返されてしまったそうで、
諦めきれないなべさんは、次の日も、おもちゃの近眼鏡をかけるなど、少し扮装して再びアタックしたそうですが・・・
また、断られてしまったそうです。
そこで、3日目は、一暴れ覚悟の上でトライすると、
今度は、その女性が、
あら、アンタ!
と、知った顔に声をかける気軽さで笑って対応してくれたそうで、
なべさんは、勢いがそがれ、次の言葉が出ないでいると、ちょうどその時、一番奥のドアが開いて、三木トリローこと三木鶏郎さんが現れ、
君か!こっちおいで!
と、言ってくれたのだそうです。
「三木トリロー事務所」に放送作家(コント書き)として採用される
こうしてなべさんは、女性の案内のもと、三木さんの前に立つと、
三木さんは、
君、うちじゃもうコメディアンは育てないんだよ。育つと皆出て行っちゃうからね。それより君、本当になりたいなんなら、本が読めないと駄目さ。
それに書くのがいいだ。僕がお題をやるから、それでコントを書いてみないか。書いたら持って来なさい
と、お題が書かれた紙、原稿用紙、台本が入った紙袋をくれたそうで、
なべさんは、この日の夜、夢中でコントを書き、翌日の午後、その原稿を三木さんに持って行くと、三木さんは、なべさんの書いた分厚いコントに素早く目を通し、顔を上げ、
なってないが、なるな、君は!よし・・・
君に奨学金を出してやろう。そこへ水曜日の午後四時に行きなさい。この書いたコントを持って行って、指導を受けなさい。指導料は私が出してやろう。それが奨学金だぞ、頑張れ!
と、まさかの展開に。
こうして、なべさんは、半年ほど、コント書きの指導を受けたそうで、大学在学中に放送作家デビューされたのでした。
(この時、なべさんの書いたコントを添削&指導してくれたのは、後の直木賞作家・野坂昭如さんだったそうです)
「なべおさみが若い頃は勝新太郎のもとで修行していた!」に続く