1962年、16歳の時、「可愛いベイビー」でレコードデビューすると、いきなり、100万枚を売り上げる大ヒットとなり、たちまちスターダムに駆け上った、中尾ミエ(なかお みえ)さんですが、同じ「渡辺プロダクション」の、伊東ゆかりさん、園まりさんと「スパーク3人娘」を結成させられたことが当時は不満で仕方なかったといいます。
「中尾ミエは昔「可愛いベイビー」が大ヒットしていた!」からの続き
「スパーク3人娘」として人気を博す
デビュー曲「可愛いベイビー」の大ヒットで、一躍スターダムに駆け上った中尾さんですが、レコードデビューした同じ月(1962年4月)に放送がスタートした「森永スパーク・ショー」で、同じ「渡辺プロダクション」所属の、園まりさん、伊東ゆかりさんとともに司会を務めていたことから、「スパーク3人娘」を結成することになったそうです。
すると、「スパーク3人娘」は、「渡辺プロダクション」の先輩である、女性デュオ「ザ・ピーナッツ」をスターにするという目的で企画されたテレビ番組「シャボン玉ホリデー」にも準レギュラーとして出演し、「ザ・ピーナッツ」の後継として人気を博したそうですが・・・
「スパーク3人娘」。(左から)園まりさん、中尾さん、伊東ゆかりさん。
「スパーク3人娘」が不満だった
中尾さんはというと、当時、まだヒット曲のなかった、園さん、伊東さんに対し、すでに「可愛いベイビー」でブレイクし、単独で「NHK紅白歌合戦」にも出演していたことから、
なんで今さらユニット?
なぜ3人組で括られなければならないの?
と、この「スパーク3人娘」が不満でしかなく、
同じく渡辺晋社長の自宅に住み、四六時中一緒だった、当時のマネージャー・井澤健さん(現在は「イザワオフィス」社長)に、
なんで3人一緒に紅白出なきゃいけないのよ!?
と、食ってかかり、大ゲンカしたこともあったのだそうです。
(中尾さんは、当時、まだ、渡辺社長の自宅に下宿されていました)
現在は「スパーク3人娘」に感謝
それでも、中尾さんは、嫌々、「スパーク3人娘」としての活動を続けられたそうですが・・・やがて、歌謡曲に転向した園さんと伊東さんがそれぞれヒットを連発したそうで、
中尾さんは、
だけど、そうこうしているうちに、あなた、みんなね、自分はいつまでも売れっ子だと思っていると、そうはいかないじゃないですか。
で、私がね、ちょっとほら、ヒット曲もなくなって衰退していった頃に、今度、園まりがヒット曲をバーン!と出したのよ。それで、おお、よかったよかった。
で、また園まりも少し衰退してきたら、今度、伊東ゆかりが「小指の思い出」で。だからおかげさまで、3人娘。なんか延々やっていたようなイメージがあるの。
(中尾さん⇒園さん⇒伊東さんと3段階でヒットしたことから)だから今にしてみりゃ、助けられたわよねー。
と、語っておられます。
(「スパーク3人娘」は、園さん、伊東さんともにヒットを連発したことから、自然消滅しているのですが、2005年には、40年の時を経て、再結成。以降、「スパーク3人娘」としてコンサートを開催するなど、3人での活動を続けられ、2018年、3人とも70歳を超えたことで、いったん、活動休止となっています。)
「スパーク3人娘」。(左から)伊東ゆかりさん、中尾さん、園まりさん。
大卒のマネージャーを次々と辞めさせていた
ちなみに、当時、「渡辺プロダクション」は大卒のマネージャーを採用していたそうですが、マネージャーに食ってかかり、大ゲンカするほど気の強かった中尾さんは、
大学を出たからって、何の役にも立たない
と、いつも、マネージャーをいじり倒していたそうで、
その結果、マネージャーが次々と辞め、とうとう、誰もいなくなってしまったそうで、ついには、渡辺社長に「お前、自分でやれ」と言われたこともあったのだそうです(笑)
(ただ、中尾さんの言っていることは間違っている訳ではなかったため、渡辺社長から「お前の言っていることは正論だけど、それだけでは通用しない時もあるんだ」と、よく言われたそうで、年齢を重ねるうち、社会でやっていくには、人間関係が一番大事だと分かるようになったとのことでした(笑))
「中尾ミエは昔「片想い」が6年越しでヒットしていた!」に続く