留学先のスイスの学校「American School of Switzerland」で演劇と出会い、俳優を目指すようになると、帰国後は、片っ端からオーディションを受け続けるも、落選ばかりだった、シルベスター・スタローン(Sylvester Stallone)さんは、生活のため、不本意ながら、ポルノ映画やアダルト劇の舞台に立ったこともあったといいます。
「シルベスター・スタローンは医療ミスで左顔面麻痺と言語障害になっていた!」からの続き
生活のためポルノ映画やアダルト劇に出演していた
なかなかオーディションに受からず、エキストラで食いつなぐも、ついには、家賃が払えなくなり、ホームレスにまでなってしまったスタローンさんは、仕事を探す中、ポルノ映画の男優募集の記事を見つけると、出演料はわすか200ドル(約21,000円)だったにもかかわらず、生活のために出演を決意。
1970年、24歳の時には、ソフトコアポルノ「Party at Kitty and Studs」(子猫と種馬のパーティ)に出演されたそうです。
(ただ、あまりの出来の悪さに、製作当時は未公開に終わったそうですが、後に、スタローンさんが「ロッキー」で大スターになると、「イタリアの種馬(Italian Stallion)」と改題され、アメリカでビデオ発売され、日本では、「ザ・イタリアン・スタローン」というタイトルでビデオ化されています)
また、1971年には、オフ・ブロードウェイの小劇場で「Score」というアダルト劇の舞台に立つなど、日銭を稼ぐ、極貧生活が続いたのだそうです。
極貧生活のなか独学で脚本の練習をしていた
そして、このような、ポルノ映画への出演やエキストラのような端役で、なんとかお金を貯め、ニューヨークの場末に、アパートを借りることができたそうですが、電気代が払えず、暖房をつけられなかったことから、部屋の中は寒過ぎたそうで、
しょっちゅう、図書館に通って暖を取りにいったそうですが、そこで、エドガー・アラン・ポーの小説に出会うと、僅かに残ったお金で脚本執筆用のノートと筆記具を買い、小説を参考に、脚本を書く練習を始めたのだそうです。
(ほかの仕事をすると、二度と俳優業には戻れなくなると思い、あえて、別の仕事は探さず、貧乏生活に耐えていたそうです)
ハリウッドに移るもオーディションに落ち続ける日々
そんな厳しい生活の中、ついに、1974年には、出演した映画「ブルックリンの青春」の演技が評価されて、ハリウッドに移り、1975年には、映画「デス・レース2000年」で準主役に抜擢されるのですが・・・
その後は、ニューヨーク同様、ハリウッドでもなかなかオーディションに受からず、再び、苦しい日々が続いたのだそうです。
(オーディションには50回以上落選したそうです)
「シルベスター・スタローンは「ロッキー」の脚本を3日で書き上げていた!」に続く
「ブルックリンの青春」より。左から2人目がスタローンさん。