ハリウッド映画に端役として出演するかたわら、ロサンゼルス・シティー・カレッジ(ロサンゼルス市立短期大学)で演技を学ぶようになった、クリント・イーストウッド(Clint Eastwood)さんですが、当初は、パッとしなかったようです。
「クリント・イーストウッドは飛行機が海に墜落も泳いで生還していた!」からの続き
カメラマンのアーヴィング・グラスバーグに気に入られる
ロサンゼルス・シティー・カレッジ(ロサンゼルス市立短期大学)の夜間の演劇クラス(シアター学部)に通いながら、エキストラとして映画に出演していたイーストウッドさんですが、
ある日、フォート・オード基地(兵役)時代に知り合い、親しくなった、チャック・ヒルさんと再会し、演技の才能を見込まれて、カメラマンのアーヴィング・グラスバーグさんを紹介してもらうと、
グラスバーグさんとは、スポーツの話で盛り上がり、
現場に来れば余ったフィルムで撮る
と、言われたそうで、
夕方頃に、グラスバーグさんの撮影現場を訪ねると、1時間ほど待たされた後、カメラの前でいろいろと質問されたそうで、
初めてのことで、緊張のためガチガチだったそうですが、若く、見栄えの良かったイーストウッドさんは、カメラ映りも良かったことから、
伝統的に映画で成功していったハンサムな若者の一種
と、グラスバーグさんに気に入られ、週給75ドルと、当時としては、高給の仕事をもらえたのだそうです。
映画監督のアーサー・ルービンにも気に入られる
その後、グラスバーグさんは、映画監督のアーサー・ルービンさんにも推してくれたそうで、
イーストウッドさんのアルバイト先のガソリンスタンドまで会いに来たルービン監督は、
背が高く身体が細く、とてもハンサムだ
と、グラスバーグさん同様、イーストウッドさんに好印象を抱き、早速オーディションの手配をしてくれたそうです。
ただ、ルービン監督は、
彼は素人だ。どの道に進み、何をするのか分かっていなかった
と、まだ演技が上手ではなかったイーストウッドさんの売り込みに、それほど熱心にはなってくれなかったそうです。
それでも、ルービン監督は、イーストウッドさんには、あきらめないように言い、ドラマの養成コースに参加することを提案するほか、1954年4月には、ユニバーサルを紹介してくれたそうで、イーストウッドさんは、ユニバーサルと週給100ドルで契約できたのだそうです。
(ルービン監督がこれほどイーストウッドさんに親切にしたのは、ルービン監督が同性愛者で、イーストウッドさんと性的な関係を持っていたのではと、当時の妻・マーガレットさんやハリウッドの業界関係者は疑っていたそうです)
当初は演技が下手で端役ばかりだった
こうして、ルービン監督の尽力で、ユニバーサルと契約を結んだイーストウッドさんですが、翌5月、映画「六つの橋を渡る男」の強盗役のオーディションを受けるも落選。
(監督のジョゼフ・ペフニーさんが、イーストウッドさんの演技を気に入らなかったそうです)
そして、その後も、「ブリガドーン」「The Constant Nymph」「進め!ベンガル連隊」「七年目の浮気」「異教徒の旗印」「Smoke Signal」「Abbott and Costello Meet the Keystone Kops」と、立て続けにオーディションを受けるも、ことごとく落選。
1955年、ようやく、ジャック・アーノルド監督の映画「半魚人の逆襲」の研究員ジェニングスという端役で、映画デビューを果たしたのでした。(とはいえ、ノンクレジット)
「半魚人の逆襲」出演時のイーストウッドさん。
ちなみに、ユニバーサルと契約後、イーストウッドさんは、端役(時には全裸での演技も)をこなす毎日だったそうですが、そっけない演技しかできず、女優が出演する映画でも、演技ができなかったことから、スタッフからの評判は良くなかったそうで、
俳優仲間のジョン・サクソンさんは、当時のイーストウッドさんについて、
一種の干し草のようなもの・・・薄い喉仏で、台詞を言うのが遅く、非常に不気味だった
と、明かしており、イーストウッドさんが主役に選ばれることはなかったそうです。
「クリント・イーストウッドは若い頃ユニバーサルを解雇されていた!」に続く