若者のすべて」「山猫」「サムライ」など、ヨーロッパの巨匠たちの作品に次々と出演し、絶頂期を迎えるも、1968年10月、ボディーガードのステファン・マルコヴィッチさんが射殺体で発見されたことで、すっかり犯人扱いされ、俳優生命の危機に直面した、アラン・ドロン(Alain Delon)さんですが、一気に巻き返しを図ります。

「アラン・ドロンは昔「サムライ」「山猫」等で人気絶頂も事件で犯罪者扱いに!」からの続き

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私生活を連想させる作品に次々と出演

ボディーガードのステファン・マルコヴィッチさんが射殺体で発見されたことで(マルコヴィッチ事件)、犯人扱いされ、大きくイメージダウンしてしまったドロンさんですが、

太陽が知っている」(1968)では、当時の婚約者、ロミー・シュナイダーさんと共演するほか、


「太陽が知っている」より。ロミー・シュナイダーさんとドロンさん。

「栗色のマッドレー」(1970)では、恋人、ミレーユ・ダルクさんとの同棲生活を連想させ、


「栗色のマッドレー」より。

もういちど愛して」(1971)では、元妻ナタリー・ドロンさんと共演するなど、


「もういちど愛して」より。

疑惑の渦中にあった自分をさらけ出すように、私生活を連想させるような作品に次々と出演すると、ヒットを連発。

「シシリアン」「ボルサリーノ」なども大ヒット

すると、「シシリアン」(1969年)、「ボルサリーノ」(1970年)、「帰らざる夜明け」(1971年)、「リスボン特急」(1972年)など、私生活とは無関係の映画も立て続けに大ヒットするなど、見事、巻き返しを図り、再び映画界の頂点に返り咲いています。

ちなみに、ドロンさんは、

52時間も尋問を受けた。しかし私は容疑者ではない。多くの人々が手錠をはめられた私を見たかったらしい。パリは悪意にみちた都だ

しかし、私は立ち直った。あの忌まわしい事件から、プロとしての姿勢を崩すことなく抜け出したと自負している。私の映画は、事件以前よりも観客動員に成功している

私はフランスの映画俳優として、フランスのひとつのイメージを体現しているのだ。ボルドー・ワインや香水のシャネルのように私はフランスの特産物の一つだ

と、語っています。

映画「ショック療法」ではオールヌードを披露

また、ドロンさんは、1973年には、映画「ショック療法」で、オールヌードになって走るという、捨て身の演技も披露しており、ドロンさんの覚悟の表れが伺えます。


「ショック療法」より。アニー・ジラルドさんとドロンさん。

(1977年秋には、日本でも、この「ショック療法」が「ゴールデン洋画劇場」で初オンエアされたのですが、その時のセールスポイントは、やはり、ドロンさんのオールヌードだったそうで、日本ではそのまま放送できず、ボカシ入りでの放送となったそうです)

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ハリウッドに進出しなかった理由とは?

こうして、フランス映画界で最高額のギャラを手にするトップスターとなったドロンさんですが、ハリウッドには進出しようとしなかったそうで、

アメリカの大物プロデューサー、デイヴィッド・O・セルズニックさんと、一旦は契約するも、途中で解除しています。

というのも、英語のセリフでは自身の魅力を損なうと、ドロンさんが考えていたからだそうです。

「アラン・ドロンは昔日本での人気が凄まじかった!」に続く

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