幼い頃は内気な性格も、チャンバラごっこが好きで、学芸会では人が変わったようにハツラツとしていたことから、8歳の時、親に児童劇団「東童」に入れられ、翌年、「東映児童演劇研修所」に入団すると、たちまち子役として頭角を現した、風間杜夫(かざま もりお)さんですが、子役は中学入学と同時に辞めていたそうです。

「風間杜夫の生い立ちは?少年時代は人気子役だった!」からの続き

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中学入学と同時に子役を辞めていた

1958年、小学校3年生(8歳)の時、親に「東映児童演劇研修所」に入れられると、名だたる監督の作品に次々と出演し、あれよあれよと人気子役となった風間さんは、「東映」京都撮影所では、大川橋蔵さんや中村(萬屋)錦之助さんという、大スターを間近に見ていたことから、役者に憧れを抱くようになっていったそうですが、

小学6年生になると、徐々に仕事が減り始めたそうで、

次第に、

あいつは売れているのに俺には仕事がこない

と、他の子役を妬む気持ちが生まれたそうです。

そして、そんな中、教育映画で共演した、俳優の米倉斉加年さんから、

君は将来役者になりたいのか?なりたいんだったら、すぐ児童劇団をやめなさい。大人の役者と子供は違う。大人になってもう一度勉強し直さなきゃいけないよ

と、諭されたそうで、

その言葉がずっと頭に残っていたことから、この助言に従い、1962年、中学に入学すると、児童劇団を退団したのだそうです。

(ちなみに、風間さんは、後に、米倉さんにそのことを話したそうですが、全く覚えていなかったそうです(笑))

高校生の時に舞台の楽しさに目覚める

それでも、風間さんは、演劇自体を辞めてしまった訳ではなく、(玉川学園)中学・高校では演劇部に所属していたそうで、高校の時には、舞台の楽しさに目覚め、将来は舞台をやりたいと思うようになったそうです。

そして、高校卒業後は、そのまま、付属の(玉川)大学に進学するつもりだったそうですが、当時は学生運動が真っ盛りだったにも関わらず、玉川学園は「玉川楽園(らくえん)」と呼ばれるほど、とても穏やかな学校だったそうで、風間さんは、いい学校だとは思いつつ、少し物足りなさを感じていたのだそうです。

早稲田大学入学後は劇団「自由舞台」に入団

そんな中、早稲田大学に何度かお芝居を観に行っていたそうですが、早稲田大学の騒然としたキャンパスに魅力を感じ、また、伝統のある早稲田大学の劇団「自由舞台」に入りたいと思うようになったことから、早稲田大学を受験すると、一度は不合格となるも、一浪の末、1969年、無事合格。

すると、入学後すぐに、劇団「自由舞台」に入団したそうで、1年生の時には、舞台公演「あの日たち」に、端役で出演するのですが・・・

これが最初で最後の舞台となってしまったのだそうです。

(「自由舞台」としても最後の作品となったそうです)

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学生運動により「自由舞台」が閉鎖

というのも、風間さんが早稲田大学に入学した頃は、ちょうど、学生運動の盛り上がりがピークに達していた時だったことから、風間さんも、舞台「あの日たち」の稽古もそこそこに、大学生活のほとんどを、デモに明け暮れる日々を過ごしていたというのです。

ただ、それでも、風間さんらは、1年生だけで自主公演をやろうとしたことがあったそうですが、夜中に、先輩が部室に乗り込んできて、床も壁も真っ黒く塗られた部室に、「今は芝居をやるときじゃない!」と白いペンキでデカデカと書かれたことがあったそうで、劇団の活動はままならず、結局、その後、「自由舞台」は閉鎖されてしまったのでした。

ちなみに、風間さんは、その時のことを、

あの頃の学園紛争というのは、要するに「自由」をめぐる闘争だったんですよ。僕もデモに参加していたんだけど、あるとき機動隊に捕まっちゃって、護送車で警察署まで連行されたことがあった。

そうやって、囚(とら)われの身になって車から街並みを眺めていたとき、ふと思ったんですよ。「自由をよこせと騒いでいたけど、俺たちかなり自由じゃないか!」って。

何せ、デモに行く以外はずっと仲間とジャズ喫茶や雀荘にたむろしていたからね。「自由を謳歌(おうか)して好きなことやれているのに、何で俺は拘束されちゃったんだろう」って(笑)

と、語っています。

「風間杜夫が若い頃は大竹まことらと劇団「表現劇場」を結成していた!」に続く

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