写真館を経営し、劇場のタニマチをしていたお父さんのもと、裕福な家庭で生まれ育つと、幼い頃は、お父さんが連れて行ってくれた劇場で舞台に上がり、おひねりやお菓子をもらえることが楽しかったという、大村崑(おおむら こん)さんですが、9歳の時、お父さんが他界すると、幸せだった生活が一転します。
「大村崑の本名は?芸名の由来は?幼少期から父親がタニマチの劇場で舞台に上がっていた!」からの続き
小学生の時は人を笑わすことに喜びを感じていた
幼い頃、お父さんに連れて行ってもらった劇場で舞台に上がることが、幼稚園に行くよりも楽しかったという大村さんですが、この経験がきっかけで、小学校に入ると、教室で落語や寸劇をするようになり、クラスメイトに笑ってもらえることに喜びを感じるようになったそうで、
小学校3年生の時には、担任の先生がつわりで気分が悪くなり、
岡村くん(大村さんの本名)、先生帰るから、後はお願いね
と、言って、帰ってしまったことがあったそうですが、
後を任された大村さんは、教壇に上がると、
えー一席笑いを申し上げます
から始め、落語の「平林」や「旅ぃ~ゆけばぁ~」などと浪曲をやってみんなを笑わせ、クラスの人気者になったそうです。
9歳の時父親が他界
しかし、大村さんが9歳の時には、お父さんが腸チフスで他界。
子供の中で、長男だった大村さんだけが病院に呼ばれ、お父さんの死に顔を見たそうですが、
大村さんは、
骸骨みたいに痩せていてね、あれは忘れられません。伝染病なので家も消毒されて、葬式もできない。
と、明かしています。
父親が他界し伯父夫婦の養子になるも殴られ難聴に
その後、親族会議の結果、大村さんは、お父さん同様に写真館を営む、子供がいなかった伯父夫婦の養子となったそうですが、
和裁教室を開いていた伯母さんはとてもキツイ性格の人で、和裁で使う物差しで叩かれたり、ゲンコツで殴られるなどの暴力を伴う教育を受けて育ったそうで、大村さんは、そんな伯母さんを、一度も「お母さん」とは呼べなかったそうです。
(大村さんは、殴られたことが原因で、難聴になってしまったそうです)
そして、そんな家庭環境のせいで、大村さんはすっかり荒み、あれだけ楽しかった落語や寸劇も、転校後はやめてしまい、不良グループに入り、ケンカに明け暮れる毎日を送ったのだそうです。
(ちなみに、上の妹はお母さんの妹の家、弟はそれ以前に養子に出され、お母さんは、まだ赤ちゃんだった下の妹を抱えて「岡村」から除籍させられたそうで、一家は離れ離れになったそうです)
進駐軍で盗みを働き「闇物資商売」をしていた
そんな大村さんは、成長し、高校に進学するも、ちょうど戦争中だったことから、学徒動員でほとんど学校へは行かず、終戦後も、そのまま学校へは行かず、進駐軍の倉庫へ忍び込んでは塩を盗んだり、軍から入手したタバコを巻き直して売ったりと、いわゆる「闇物資商売」を手がけたのだそうです。
ちなみに、大村さんは、この頃、同じ様に進駐軍に出入りしていた、後に「漫画トリオ」で人気を博す、横山ノックさん(元・大阪府知事)と出会ったそうですが、暗黙の了解で、この時のことは、お互い口に出すことはなかったそうです。
「大村崑は昔神戸のキャバレー「新世紀」でボーイをしていた!」に続く