高校卒業間近に観た劇団「民芸」の戯曲「オットーと呼ばれる日本人」で、主演の滝沢修さんの演技に感銘を受け、本格的に役者になることを決意したという、市村正親(いちむら まさちか)さんは、高校卒業後は、「舞台芸術学院」に入学し、演劇を学び始めるのですが、夏休みのアルバイトで俳優・西村晃さんの付き人となったことをきっかけに、「舞台芸術学院」卒業後は正式に西村さんの付き人になります。
「市村正親は高校生の時に日活映画に出演(端役)していた!」からの続き
歌舞伎俳優の八代目市川中車にアドバイスを受ける
市村さんは、高校卒業後、演劇をやるには誰かの付き人になるのが手っ取り早いと、ハナ肇さん、青島幸男さんらの住所を調べ、直接、自宅を訪ねて、弟子入りを志願するも、門前払いされてしまったそうですが、
そんな中、ちょうど、青春ドラマに出演していた、歌舞伎俳優の八代目市川中車(いちかわ ちゅうしゃ)さんと話をする機会があり、
市川さんに、
家に遊びにきなさい
と、誘われ、自宅を訪ねると、
(市川さんの自宅はイチョウ並木が立ち並ぶ神宮の絵画館の近くにあったそうです)
俳優になるには、箸(はし)の持ち方など、いろいろ習わなくちゃいけないことがある
と、アドバイスを受けたそうで、
市村さんは、改めて、演劇をきちんと学ぶにはどこがいいか、考えてみたそうです。
「舞台芸術学院」に入学
そこで、真っ先に思いついたのが、当時から有名だった、「俳優座」だったそうですが、自分には「俳優座」は「ピカピカ輝きすぎている」と感じ、無理だとあきらめてしまったそうで、
次に、高校で演劇部の顧問だった茨木先生が「舞台芸術学院」で演劇を習っていたことを思い出し、「舞台芸術学院」の演劇科に第19期生として入学すると、
入学式の前日には、ナベ、カマ、布団を持って、学校の近くにあった3畳一間の下宿に転がり込んだそうで、貧しい生活ながらも、以降、3年間、1日も授業を休まず、演技を学んだのだそうです。
「舞台芸術学院」での試演会より。
(入学時には同期が52人いたそうですが、卒業する頃には18人に減っていたそうです)
西村晃の付き人になる
そんな市村さんは、「舞台芸術学院」の2年生の時、俳優の西村晃さんが付き人を探していると、友達から聞き、夏休みのアルバイトとして応募すると、見事採用されたそうですが、
(西村さんは、野坂昭如さんのミュージカル「聖スブやん」で主演を務めることになっており、稽古は3週間ほどだったそうですが、プロの現場を見ることができ、とても勉強になったそうです)
このことが縁となり、「舞台芸術学院」卒業後、西村さんから、
手伝ってみないか
と、声をかけられたそうで、正式に、西村さんの付き人になったそうです。
西村晃の付き人時代には大きなミスを犯すも特に怒られず許してもらっていた
ちなみに、西村さんは、鼻歌をよく歌う、ユーモアのある、明るい性格の人だったそうで、
ある時、西村さんが、舞台で、ポケットからバラ(の造花)を取り出しながら、「花も実もある・・・」というセリフを言うことになっており、市村さんは、西村さんのズボンのポケットにバラの造花を仕込んでおかなければならなかったところ、忘れたことがあったそうですが、
西村さんは、本番中、ズボンのポケットにバラの造花がないことに気づくも、素知らぬ顔で演技を続けたそうで、舞台が終わり、市村さんが慌てて西村さんに謝りに行ったそうですが、西村さんからは特に怒られず、許してもらったそうです。
西村晃の付き人を辞めて独立することを決意
さておき、市村さんは、「石の上にも三年」という言葉を胸に、小道具を用意したり、お茶を運んだりと、西村さんの付き人として、西村さんの身の回りの世話に邁進していたそうですが、
24歳になった時、ふと、これまでの師匠第一だった人生から、自分を第一に考えてみたくなり、付き人を辞めることを決意したそうで、
西村さんに手紙をしたためて渡すと、西村さんは、「分かった」とこれを了承してくれ、西村さんの奥さんも、「役者の正道を歩みなさい」と言って、送り出してくれたのだそうです。
ちなみに、市村さんは、付き人時代について、
付き人をしていて、とにかく、芝居や映画の現場を生で見ることができたのは大きかった。
三木のり平さん、小沢昭一さん、三國連太郎さん、萬屋錦之助さん、森雅之さんら有名な俳優の生きざまを直に見て、一流の役者の振る舞いや言動がどうあるべきか学びましたね。
楽屋のれんの中と外で、まったく違う役者になってはいけないなどとも教わった。スタッフへの気配りなど芝居をつくっていく上で大事なことを学びました。
と、語っています。
「市村正親のデビューは劇団四季の「イエス・キリスト=スーパースター」!」に続く