1989年、15歳の時、上京すると、当初は、アルバイトをしながら、事務所の従業員用の寮で極貧生活をしていたという、篠原涼子(しのはら りょうこ)さんですが、その後、アイドルグループ「東京パフォーマンスドール」のメンバーとしてCDデビューすると、メンバーの中で断トツの人気を博していきます。
「篠原涼子は昔中森明菜に憧れて歌手を目指していた!」からの続き
「東京パフォーマンスドール」としてデビュー
上京した当初は、アルバイトをしながらの極貧生活だった篠原さんですが、同年10月には、テレビドラマ「高速戦隊ターボレンジャー」の、都立武蔵野学園高校の生徒役で、芸能界デビューを果たすと、
「高速戦隊ターボレンジャー」出演時の篠原さん。
翌年の1990年4月には、アイドルグループ「東京パフォーマンスドール(TPD)」のメンバーに起用され、同年5月には、「東京パフォーマンスドール」内ユニット「ゴルビーズ」として、ファーストシングル「JUST LIKE MAGIC」で、CDデビューも果たします。
「東京パフォーマンスドール」時代の篠原さん。
「アイドル冬の時代」の中「東京パフォーマンスドール」で人気
ただ、当時は、いわゆる、「アイドル冬の時代」。
「ザ・ベストテン」や「夜のヒットスタジオ」などの歌番組も相次いで終了し、アイドルが露出する機会が激減するほか、ライブで実力をつけたバンドがブームとなり、アイドルは格好悪い存在とみなされる風潮になっていたのですが、
そんな中、「東京パフォーマンスドール」は、洋楽ディスコナンバーのカバーを中心に、アイドルらしからぬ、本格派のダンスパフォーマンスを追求し、竹下通り脇にあったライブハウス「原宿ルイード」で、毎週末、MCを入れず、ノンストップで歌とダンスを繰り広げる「ダンスサミット」と銘打ったライブを開催するようになると、
当初は、10人にも満たなかった観客が、間近で少女たちのハイレベルなパフォーマンスが観られると、口コミだけで評判が広まり、
(当時SNSはありませんでした)
チケットの争奪戦が起こるなど、テレビで見ることができないからこそ、逆にレアな存在となっていったそうで、シングルを発売していないにもかかわらず、1993年には、日本武道館2days、1994年には、横浜アリーナ公演を成功させるほどの人気を博したのでした。
「東京パフォーマンスドール」では断トツの人気でバラドルとしても活動
そんな「東京パフォーマンスドール」の中でも、ルックス面においても、ヴォーカル面においても、ひときわ存在感を放ち、ダントツの人気を誇っていた篠原さんは、
(「東京パフォーマンスドール」は、特定のメンバーをフィーチャーすることが少なかったそうですが、そんな中でも篠原さんは断トツの人気を誇っていたそうです)
1991年12月には、バラエティ番組「ダウンタウンのごっつええ感じ」にレギュラー出演し、バラエティアイドルとしても活動すると、捨て身の覚悟で様々なコントに挑戦するほか、アイドルらしからぬ気さくなキャラクターがお茶の間の人気を博し、タレントとしても頭角を現していったのでした。
毎日10時間レッスンを受けていた
ちなみに、当時、篠原さんは、毎日10時間ものレッスンを受けていたそうですが、
自分が望んで芸能活動をしていましたが、でも電車に乗っているとき、同年代が楽しくしゃべっているところを見ると、やっぱり羨ましかったです。
16歳で上京して、とにかく仕事に没頭しなきゃいけない時期だったので、遊ぶ余裕を持つことができませんでした
と、明かしています。
「篠原涼子は昔「ごっつええ感じ」で体を張ったコントをしていた!」に続く