1981年に井筒和幸監督映画「ガキ帝国」で映画デビューしたこときっかけに、次々と映像作品に出演するようになるも、どれも端役ばかりで、このまま俳優をやっていていいのかと悩んでいたという、國村隼(くにむら じゅん)さんですが、そんな時、これで駄目なら最後と、ハリウッド映画「ブラックレイン」のオーディションに臨んだといいます。
「國村隼が若い頃は?映画デビューは「ガキ帝国」!」からの続き
活動の場をテレビドラマや映画に移すも鳴かず飛ばずの日々
1981年に井筒和幸監督映画「ガキ帝国」に出演し、映画作りの楽しさを知った國村さんは、このことをきっかけに、舞台から映像の世界へと活動の場をシフトしていったそうで、
その後、テレビドラマでは、
1982年「よーいドン」
1983年「必殺仕事人IV」第5話
1984年「心はいつもラムネ色」
1985年「家族あわせ」第1話,第4話
1986年「都の風」
映画では、
1985年「二代目はクリスチャン」
と、立て続けに出演するのですが・・・
どれも端役ばかりで、お芝居だけでは食べていくことができず、牛丼チェーン「吉野家」の深夜バイトをしながら、生計を立てたそうです。
「ブラック・レイン」では松田優作に可愛がられていた
そして、いつの間にか30歳を超えてしまったある日、リドリー・スコット監督が、映画「ブラック・レイン」(1989年)の撮影を大阪でするにあたり、オーディションをするという記事を、事務所の社長が新聞で見つけたそうで、
國村さんは、
もしも落ちたら、その時点で役者はやめる
との覚悟でオーディションを受けると、見事、合格。ヤクザ・佐藤(松田優作さん)の子分・吉本役に起用されます。
「ブラック・レイン」より。
すると、映画「ブラック・レイン」は世界的な大ヒットを記録。國村さんも、たちまち注目を集めたのでした。
ちなみに、この映画では、
「ブラックレイン」はほんまに強烈な体験やった。撮影でLAに滞在した時は、(故・松田)優作さんがよく食事に誘ってくれて。
で、する会話といえば映画のことばっかり。いかに自分がこの現場を楽しんでいるか、というのを四六時中話してました。
「常に役者というのは見られていることを意識しろよ」と教えてくれた。優作さんが本当に命を懸けた映画というものを、自分も本気でやってみたいと思うようになった。
と、松田さんから映画の楽しさを学び、これからも映画の世界で生きていこうと決意を固めたそうですが、
國村さんは、
俳優をやっていていいのかと悩み、ターニングポイントに来ていた。あの時リドリー・スコットが僕を選んでくれへんかったら、「もうええか」と思っていたかもしれない。
と、この映画が人生の分岐点だったことを明かしています。
ハリウッド映画独特の撮影方法を経験して一皮向けていた
また、國村さんは、この「ブラック・レイン」では、日本映画とハリウッド映画の撮影方法の違いに戸惑ったといいます。
というもの、撮影現場には、カメラが4台あり、1シーンを平均7テイク合計28テイクも撮り、その中から一番良いカットを採用するという方法だったそうで、日本のように、「OK」「NG」というのは基本的にはなく、一発OKというのはありえないことだったのだそうです。
この経験から、國村さんは、役者の基本は材料作りなのだと学んだそうで、1シーンを7テイクも撮るのにすべて同じ演技をしていては意味がないと、複数のバリエーションで演じようと考え、そのためには、「自分のイメージを持つことが重要」だということに気づいたそうで、
それまでは、どこか監督の指示待ちみたいな意識があったんです。でも、この作品と出合って考えが変わりました。
物語の中に存在するキャラクターをどこまで感じることができるか、一人、台本と向き合い、納得するまでイメージします。この準備さえしっかりとできていれば、現場ではもう僕ではなくなり、役を演じることができるんです
と、語っています。
「國村隼は韓国映画「哭声/コクソン」で人生初の俳優賞を受賞していた!」に続く