高校生の時、好きな女の子を撮るため、8ミリフィルムで映画を製作したという、竹中直人(たけなか なおと)さんですが、大学に入った後も、「映像演出研究会」という8ミリ映画を撮るクラブに入り、映画製作に没頭したそうで、あの有名な「笑いながら怒る人」も、この時、偶然出来たといいます。
「竹中直人が映画製作を始めたのは好きな女の子を撮るためだった!」からの続き
東京藝術大学の受験に3回落ちていた(2浪していた)
中学・高校と美術部だった竹中さんは、高校3年生の時、突然、東京藝術大学を受験しようと思い立ち、受験したそうですが、あえなく、不合格。
そこで、浪人して翌年、再度受験したそうですが、またしても、不合格。
そして、2浪して翌々年もチャレンジしたそうですが、またしても不合格。
ただ、お父さんには2浪までと言われていたことから、その時、合格していた多摩美術大学に入ったそうです。
(多摩美術大学も憧れの大学ではあったものの、授業料が高く、当初は、お父さんに、行かせられないと言われたそうですが、最終的には、お父さんがなんとか学費を工面してくれ、行かせてくれたのだそうです)
多摩美術大学で映画「燃えよタマゴン」を製作
こうして、竹中さんは、多摩美術大学・グラフィックデザイン科に入ると、大学1年生の時には(2浪しているため20歳)、8ミリ映画を作るクラブ「映像演出研究会」に入部。
竹中さんは、映画「燃えよドラゴン」(ブルース・リーさん監督・脚本・主演)が大好きだったことから、それをもじった、「燃えよタマゴン」(「タマ」は多摩美術大学の「多摩」)という短編映画を作ったそうですが、これで、自分で脚本を書き、演出をし、出演するという映画の世界に、たちまち虜になったのだそうです。
本格的に俳優を志す
そんな竹中さんは、以降、映画製作に没頭し、出演するだけではなく、脚本、演出も手掛けたそうですが、
監督作は4本くらいかな。文化祭に向けて、みんな熱い気持ちで8ミリ映画を作るんですけど、上映したらコンペに出すこともなくおしまい。
人に評価されたいという欲のある奴が誰もいなかったのが、何とも素敵でした。ただ好きで作る。その空気感が心地よかった
と、すっかり映画の世界に魅了されたそうで、
大学4年生の時には、
あー、映画の道に進めたらいいな。映画の俳優とかになれたらいいな
と、本格的に役者を目指す決心をしたのだそうです。
(ただ、その4本の映画は、当時、映画を作ること自体が楽しく、保管のことまで考えていなかったことから、誰がどう保管していたかは不明で、現存していないそうです)
バラエティ番組「ぎんざNOW!」でチャンピオンに輝く
また、大学在学中の1977年には、友達から、「モノマネとか上手いから、応募したら?」と言われ、自ら、素人参加型バラエティ番組「ぎんざNOW!」の「素人コメディアン道場」に応募すると、見事「第18代チャンピオン」に。
以降、素人番組にちょこちょこと出演するようになると、バラエティ番組「TVジョッキー」では、当時の持ちネタ「笑いながら怒る人」を披露し、視聴者を爆笑の渦に巻き込んだのでした。
「笑いながら怒る人」は偶然の産物だった
ところで、この「笑いながら怒る人」、大学時代、8ミリフィルムで映画を撮影した際、少しだけフィルムにあまりが出たことから、「首振り地蔵の怪」という短編映画を撮影した時、期せずして誕生したそうで、
竹中さんは、
お地蔵さんが首振って笑ってるというヤツ。みんなにバカにされたから(笑いながら)「ふざけんじゃねぇ、コノヤロー」と怒った。そしたら、みんな大爆笑。それが40年続いている
と、偶然の産物だったことを明かしています(笑)
「竹中直人の映画デビュー作は「痴漢電車 下着検札」!」に続く