さすがに、若い頃の「てんぷくトリオ」や「電線マン」での面影はなくなり、近年では、すっかり、俳優として、優しいお父さん役などでお馴染みの、伊東四朗(いとう しろう)さん。今回は、そんな伊東さんの知られざる生い立ちについてご紹介します。
年齢は?出身は?身長は?
伊東さんは、1937年6月15日生まれ、
東京府東京市下谷区竹町(現・東京都台東区台東)のご出身、
幼少期の伊東さん
身長166センチ、
血液型はO型、
学歴は、
国立市立第一中学校
⇒東京都立市ヶ谷商業高等学校(現・大田桜台高校)卒業
趣味は、
読書、映画観賞、テレビゲーム、メジャーリーグ観戦、テニス、
特技は、ギター、
ちなみに、お兄さんは、教育評論家の伊藤竹三さんです。
本名は?最初の芸名は?
伊東さんの本名は、伊藤 輝男(いとう てるお)というそうで、最初の芸名は、師匠の石井均さんに「いとうにしよう」と言われたことから「伊藤証(いとうしょう)」だったそうです。(「一等賞」をもじって名付けられたとの説も)
ただ、ポスターなどに名前が連なる時に
名前が一文字なため、先輩より目立つ。お前も2文字に”しろ”(→四朗)
と、言われ、「伊東四朗」と改名したそうです。
生い立ち
さて、伊東さんは、洋服の仕立て職人だったお父さんのもと、5人兄弟(3男2女)の上から4番目の三男として、東京市下谷区竹町(現・台東区台東)に誕生するのですが、
お父さんは、働きたくなければ働かないという、わがままな人だったことから、家賃が払えず、夜逃げを繰り返していたため、兄弟全員、違うところで生まれたそうです。
(そのくせ、言いたいことだけは言っていたそうで、伊東さんは、子ども心にも理不尽だと思っていたそうです)
3歳にして流行歌を歌っていた
また、お父さんは趣味で三味線を弾き、お母さんは家で一日中鼻歌を歌っていたことから、伊東さんは3歳にして、お母さんに、ねんねこ絆纏(ばんてん)でおんぶされながら、
ハア~島で~育てば~
と、小唄勝太郎さんという人の「島の娘」という歌を歌っていたそうで、
お母さんによると、買い物に出かけた際には、周りの人は、まさか、おんぶされている幼児が歌っているとは思えず、「誰が歌ってるんだろう」と見回していたとか。
さらに、伊東さんの一番上(13歳年上)のお兄さんが喜劇が大好きだったことから、伊東さんは、3、4歳の頃、「新橋演舞場」で上演されていたお芝居「勧進帳」を、初めて観に連れて行ってもらったそうですが、
たちまち喜劇が好きになったそうで、その後もお兄さんにしばしば浅草や有楽町の喜劇に連れて行ってもらったそうです。
少年時代には太平洋戦争を経験
こうして、貧しいながらも芸事が好きだった家族のもと、すくすくと自由に育たれた伊東さんですが、1941年、太平洋戦争が始まると、1944年11月には(伊東さん7歳)、「B29」による本格的な空襲が始まり、伊東さんは、空襲警報が鳴るたびに、自宅の防空壕に駆け込む日々を送るようになります。
そして、ある日のこと、今でも忘れられない光景に出くわしたそうです。
ある日、空襲警報が解除されたことから、近所の人たちが家から出てきて、
ああ、みんな助かったな
と、安心していると、その瞬間、電線に引っかかっていた焼夷弾が突然落ちてきて、タテノさんという近所の人の顔に直撃。タテノさんの顔半分がスパっと削ぎ落とされて死んでしまったというのです。
この時、伊東さんは、「即死」という言葉を覚えたそうで、
私は間近で見たから、あの光景はいまだに頭から離れませんね。
と、語っておられるのですが、
その後も、翌年の1945年3月10日未明には、「東京大空襲」に見舞われ、家族全員で手をつないで(お父さんは仕立て屋だったため、ミシンを持って)、上野の山に命からがら逃げられたのでした。
「伊東四朗は少年時代からモノマネで人気者!喜劇に夢中だった!」に続く