現在は、バラエティ番組にも頻繁に出演し、剽軽なキャラクターで人気の、ベテラン俳優、宝田明(たからだ あきら)さん。今回は、そんな宝田さんの、知られざる生い立ちから激動の少年期についてご紹介します。

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年齢は?出身は?身長は?本名は?

宝田さんは、1934年4月29日生まれ、
日本統治下朝鮮・咸鏡北道清津のご出身、

身長183センチ、

血液型はO型、

学歴は、
東京都立豊島高等学校卒業、

趣味は、
料理、麻雀、旅行、ゴルフ、

特技は、
中国語(北京語)、スケート、

ちなみに、本名は「寶田明」(漢字違いで読み同じ)です。

生い立ち

宝田さんは、「朝鮮総督府鉄道」で技師として勤務していたお父さんのもと、6人兄弟(兄3人、姉1人、弟1人)の5番目として、朝鮮北部(現・北朝鮮)の清津というところで誕生すると、その後、2歳の時に、「南満州鉄道(満鉄)」の社員となったお父さんの転勤に伴い、満州に移り住み、小学2年生の時には、大都市・ハルビンに引っ越しされます。

ちなみに、ハルビンは、もともとロシアが作った都だったため、食料も資源も豊かだったうえ、お父さんが務める「満鉄」は国家の大動脈を支える日本の国策会社だったことから、それを守ろうと、関東軍の精鋭部隊が駐屯するなど手厚い保護を受けていたほか、

宝田さん一家が住む社宅の石炭箱には、マッチをかざせばパッと火がつくほど、南満州の撫順で採れた良質な石炭が山ほど入っていたそうで、そんな環境の中、宝田さんは、裕福な家庭で何不自由なく育ったそうです。


1933~1945年の満州国

軍国少年だった

ただ、当時は軍国主義的な時代だったため、宝田さんも小学校高学年になると、自宅である「満鉄」の社宅から15分ほどのところにあった関東軍の兵舎に配属されて、軍事教練をさせられたそうで、

兵舎での生活は、朝の6時に起きて毛布をきちんとたたむところから始まるのですが、たたみ方が悪いとげんこつで殴られるほか、食事の後、7時から始まる軍事教練では、胴着をつけ、マスクをしているにもかかわらず、屈強な兵隊から木銃で「えいっ」と突かれて吹っ飛ばされるなど、厳しいものだったそうです。

それでも、学校では、軍国主義的な教育が当たり前だったため、宝田さんは、自然と、

やがては強い関東軍に入って兵隊となって、いまだ見たことのない祖国・日本の北の防塁たらん

と、夢見るようになり、また、その道しかないと強く信じるなど、あっという間に軍国少年になっていったのだそうです。

少年時代は天皇陛下の姿に涙

また、当時、ハルビンには、「アジア映画館」という映画館があり、そこでは、映画の本編が上映される前に、5分ほど、「日本ニュース」が流れたそうですが、最初に、宮城(皇居)で白馬にまたがった天皇陛下の姿が映し出されたそうで、

その映像が映し出された瞬間、みんながパッと起立し、宝田さんも起立すると、まともに天皇陛下の姿を見ると怒られるため、直立不動で頭を下げ、上目遣いでそっとスクリーンを見ると、

あそこが宮城か。天皇陛下さまはご立派な方なんだ。

と、自然と涙が流れ出たそうで、いまだ見ぬ祖国・日本を想う気持ちはさらに強まっていったのだそうです。

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ハルビンにソ連軍の空襲

そして、やがて、戦火が激しくなるも、宝田さんたちは、

関東軍の精鋭部隊があるから、北方は大丈夫。完全に守ってくれる。

と、信じ込み、ソビエトの脅威についても、「日ソ中立条約」があるからと、安心していたのですが・・・

気がつくと、今まで大勢いた関東軍の部隊が兵舎からごそっといなくなったほか、お兄さん2人が兵隊に取られ、どこに配属されたのか分からない状態に陥ります。

そして、1945年8月6日には、

広島に「化学爆弾」が落ちて、大勢の人が亡くなった

と、お父さんの中国人の部下が教えに来てくれ、その3日後の8月9日には、

今度は長崎に落ちた

という話が伝わり、「満鉄」の社宅の人たちが、

これは日本が負けるかも

と、不安な気持ちで過ごしていると、その日の夜、ハルビンにソ連の空軍の爆撃があり、真っ赤な火柱が「バーン、バーン」と上がったのだそうです。

(それは、ソ連の陸軍部隊がソ連国境を侵攻する前にしかけた空襲だったそうです)

「宝田明の少年時代は敗戦後のハルビンで悲惨な体験をしていた!」に続く

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