お母さんの実家である裕福な旧家で誕生すると、祖父母にかわいがられ、何不自由なく育った、奈美悦子(なみ えつこ)さんですが、その後、習い事で始めたバレエで才能を発揮します。
「奈美悦子の生い立ちは?母子家庭も母親の実家で裕福に育っていた!」からの続き
「西野バレエ団」に入団
父親はいないものの、裕福な母方の実家で何不自由なく育った奈美さんは、日本舞踊や書道などの習い事もたくさんさせてもらったそうですが、どれも続かず、唯一続いたのがバレエだったそうで、
(ほかの習い事はお母さんたちに言われるがままに始めたそうですが、バレエだけは自分からお願いして始めたのだそうです)
13歳の時、大阪で一番大きなバレエ団「西野バレエ団」に応募すると、1500人もの応募者から選出されて入団。
やがて、「西野バレエ団」でスターだった金井克子さんに憧れるようになり、
やるならば一番になりたい
私も目立ちたい
という気持ちが芽生えたそうで、
先生の目につくように、黒のレオタードに赤いベルトを締めたり、自分から最前列で踊るようにするなどの工夫を凝らしたのだそうです。
ダンスグループ「レ・ガールズ」のメンバーに抜擢される
すると、そんな努力が実り、1967年8月、16歳の時には、同じく「西野バレエ団」に所属していた、金井さん、由美かおるさん、原田糸子さん、江美早苗さんと共に、ダンスグループ「レ・ガールズ」のメンバーに抜擢。
グループ名と同名のバラエティ番組「レ・ガールズ」にレギュラー出演すると、奈美さんは、本格的に歌って踊れるアイドルとして、当時の若い世代に熱狂的な人気を博したのでした。
「レ・ガールズ」時代の奈美さん。
デビュー直後は寝る時間もないほど多忙な日々だった
そんな奈美さんは、1967年3月には、「銀の長靴」で映画デビューし、同年7月には、シングル「大阪ブルース」でソロデビューも果たしているのですが、
「大阪ブルース」
デビューしたばかりの頃は、まだ、大阪の高校に通っていたため、学校が終わるとレッスンへ行き、その後、飛行機で東京に行って仕事をし、仕事が終わると、(当時は真夜中に離陸する大阪行きの便があったため)真夜中に自宅の奈良に戻り、翌朝、学校へ行くという、寝る間もないほどの忙しい日々を送っていたのだそうです。
「銀の長靴」より。奈美さん(左)と由美かおるさん(右)。
寮生活ではホームシックになり毎晩実家に電話をかけ泣いていた
ただ、その後、ますます仕事が忙しくなり、日帰りでは大阪に戻ることができなくなってしまったため、東京・白金の女子寮に入ることになったそうですが、祖父母が猛反対。
特に、おばあちゃんはショックで、食べ物も喉を通らなくなり、体調を崩すほどだったそうですが、奈美さんも、最初の頃はさみしくて仕方なく、夜になると、公衆電話から実家に電話をかけ、「帰りたい、帰りたい」と泣いていたのだそうです。
(そんな奈美さんに対し、家族は、「いつでも迎えに行くから、早く帰ってきなさい」と言ってくれたそうで、毎日それの繰り返しだったそうです。)
また、寮では、「レ・ガールズ」の主要メンバーだった奈美さんは、6畳の個室を与えてもらっていたそうですが、
(寮には約60人が生活しており、バックダンサーらは大部屋だったそうです)
怖がりだったため、一人でいるのが嫌で、いつも部屋のドアを全開にして、誰かの声が聞こえるようにし、寝る時もずっとドアを開けっ放しにしていたのだそうです。