1970年、ファーストアルバム「古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう」でデビューすると、以降、シンガーソングライターの草分けとして活躍し、若者から熱狂的な支持を集めた、吉田拓郎(よしだ たくろう)さん。今回は、そんな吉田さんのルーツとなるご家族についてご紹介します。
年齢は?出身は?身長は?本名の由来は?
吉田さんは、1946年4月5日生まれ、
鹿児島県伊佐郡大口町(現・伊佐市)の出身で、
(広島県広島市南区西霞町(現・南区)育ち)
身長176.5センチ、
血液型はA型、
学歴は、
谷山小学校
⇒広島市立皆実小学校転校
⇒広島市立翠町中学校
⇒広島県立広島皆実高等学校
⇒広島商科大学(現・広島修道大学)卒業
(谷山小学校では、歌手の西郷輝彦さんと同級生だったそうです)
趣味は、
読書、パソコン、将棋、女子バレーボール観戦、
ちなみに、「吉田拓郎」は本名で、「拓郎」という名前には「故郷を拓け」という意味が込められているそうですが、楽曲提供者としては「入江剣」というペンネームも使われています。
(当初は、平仮名表記の「よしだたくろう」という芸名も使っていたようです)
父親は朝鮮総督府官吏の吉田正廣
吉田さんのお父さんは吉田正廣さんというのですが、植民地下の朝鮮半島で、朝鮮総督府官吏として農地制度近代化を支えたそうで、
吉田さんの父・吉田正廣さん
正廣さんは、鹿児島県で誕生すると、5歳の時に、「吉田家」の養子に入り、鹿児島県立鹿屋農学校を卒業後、朝鮮総督府に就職し、1930年頃から朝鮮半島で小作制度の調査を実施。
1931年には、朝子さん(吉田さんのお母さん)と結婚すると、戦前(吉田さんが生まれる前)は、朝鮮の羅南というところで暮らしていたそうで、そこで、吉田さんの一番上のお姉さん(長女・恭子さん)、お兄さん(長男・哲郎さん)、二番目のお姉さん(次女・宏子さん)と3人の子供が誕生したそうです。
(ただ、一番上のお姉さんは、小学校1年生の時、病気のため、朝鮮で他界されたそうです)
吉田家は朝鮮では裕福な暮らしをしていた
ちなみに、朝鮮での吉田家は、じいや、ばあやのほか、下働きの人やお手伝いさんもいて、とても裕福な暮らしをしていたそうで、
後に、お兄さんは、
拓郎、朝鮮のあの家の跡へ行くとな、ブランコの下に、絶対、金塊が埋まっているぞ
と、真面目な顔で吉田さんに言っていたそうです。
(吉田さんはそれを聞いて、何をバカなことをと聞き流していたそうですが、それほど、お兄さんにとっては、朝鮮は天国だったようです)
「吉田拓郎の生い立ちは?幼少期に鹿児島から広島へ転居していた!」に続く