大学在学中に結成したバンド「ザ・バチェラーズ」が地元・広島で瞬く間に人気を博したことから、東京進出を試みるも、あえなく失敗に終わった、吉田拓郎(よしだ たくろう)さんですが、他のバンドメンバーがやる気を失っている中、吉田さんだけは、その後もめげずに、プロへの道を模索したといいます。
「吉田拓郎の大学時代は「ザ・バチェラーズ」で人気を博していた!」からの続き
ソロ活動を開始
東京進出を目論み、「ザ・バチェラーズ」のメンバーで上京して、「渡辺プロダクション」で面接を受けるも、まったく相手にされず、メンバーのやる気が減退する中、
吉田さんはというと、バンド活動と並行してソロ活動も始めたそうで、1966年、大学2年生の時には、コロムビア洋楽部主催のフォークコンテストに出場し、自作曲「土地に柵する馬鹿がいる」を、針金を曲げて作ったお手製のハーモニカホルダー(当時はまだ市販されていなかったそうです)と6弦を12弦に改造したギターで歌唱すると、
(ジャズ曲「テイク・ファイヴ」のリズムパターンに「三里塚闘争」からインスピレーションを得た歌詞を乗せたそうです)
中国大会では2位、全国大会では3位に輝き、雑誌「平凡パンチ」に、『和製ボブ・ディラン』と紹介され、地元広島ではたちまち有名人になります。
(ただ、広島の音楽仲間からは「あれはフォークではない」「広島を歌っていない」などと批判され、居心地の悪い思いをしたそうです)
民謡収集のため再び上京~「広徳院」に居候しながらプロの道を模索
そんな中、吉田さんは、同時期、外国のフォーク歌手やロック歌手が古い民謡をカバーしていることや、民謡収集家という職業があることを知り、
(アニマルズが「朝日のあたる家」、サイモン&ガーファンクルが「スカボロー・フェア」など、古い民謡をカバーしていたそうです)
かねてから、ボブ・ディランの生き方(若い頃、家出を繰り返していた)に憧れていたこともあり、1966年秋には、大学を休学し、売り込みとフォークの研究を兼ねて、再び単身上京することにしたそうで、
適当に汽車に乗り、千葉県検見川で下車したそうですが(友人から、東京近辺で、千葉県なら民謡が聴けるのでは、と聞いていたため)、旅館が1軒もなかったことから、お寺「広徳院」で居候しながら、半年もの間、民謡を収集するほか、東京の芸能プロダクションに売り込みに行くなど、プロへの道を模索。
その間、新宿西口のフォーク喫茶「フォーク・ビレッジ」で、「ヴィレッジ・シンガーズ」の前座を務めたりもしていたそうですが(ギャラは800円)・・・
(この頃、吉田さんは、東京の音楽事情に幻滅を覚えたこと、新バンドの構想など、「ザ・バチェラーズ」のメンバー・Mさんに手紙で知らせたそうです)
「広徳院」では、墓場掃除を割り当てられていたそうで、やがて、夜の不気味さに体調を崩し、結局、民謡の収穫はゼロのまま、広島に帰郷したのだそうです。
広島に帰郷し新バンド「ザ・ダウンタウンズ」を結成
それでも、吉田さんは、1967年3月4日には、Mさん(ギター・ヴォーカル)、中学の同級生で銀行員のOさん(ベース・ヴォーカル)、自動車会社に勤める1歳年下のKさん(ドラム)と共に、新バンド「ザ・ダウンタウンズ」を結成し、
毎月2回、第1日曜日と第2日曜日の夜、広島カワイ楽器店の5Fホールで、無料のコンサートを開くと、人気を博したそうで、
(吉田さんとMさんはギター教室も開いていたそうです)
当時の吉田さんを知る関係者は、
愛する広島を「原爆を落とされたかわいそうな街」と見られることが拓郎さんには許せなかった。彼は広島をビートルズが生まれたリバプールのような音楽の街にしたいと願っていました
と、語っています。
「吉田拓郎が若い頃は米軍キャンプでの演奏を売国奴と非難されていた!」に続く