1967年、新バンド「ザ・ダウンタウンズ」を結成し、広島カワイ楽器店を中心に定期的に無料コンサートを開くと、人気を博した、吉田拓郎(よしだ たくろう)さんですが、「第1回ヤマハライトミュージックコンテスト」では、米軍キャンプで演奏していたことを理由に全国大会への出場を辞退させられていたといいます。

「吉田拓郎は大学時代「ザ・ダウンタウンズ」でも人気を博していた!」からの続き

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「第1回ヤマハライトミュージックコンテスト」中四国大会で優勝するも・・・

1967年3月4日、「ザ・ダウンタウンズ」を結成し、毎月2回、第1日曜日と第2日曜日の夜、広島カワイ楽器店の5Fホールで無料のコンサートを開くと、たちまち人気を博した吉田さんたちは、

同年、広島見真講堂で開催された「第1回ヤマハライトミュージックコンテスト」中四国大会(ロック部門)に出場すると、見事、優勝。

(ロック部門において、ほかの出場者が「ベンチャーズ」などのインストゥルメンタルバンドのコピーを演奏する中、吉田さんたち「ザ・ダウンタウンズ」だけヴォーカルバンドだったそうです)

以降、「ザ・ダウンタウンズ」は、広島市内のディスコ・クラブ、ビアガーデン、海の家などで定期的に演奏するほか、岩国の米軍キャンプ、将校クラブ、ダンスパーティーなどでも演奏するようになり、広島で随一の人気を誇るようになるのですが・・・

売国奴と非難され全国大会出場を辞退させられる

岩国の米軍キャンプで演奏していたことが、”侵略基地の慰問”と批判され、「第1回ヤマハライトミュージックコンテスト」全国大会の出場は辞退させられてしまいます(「売国奴」と批判された)。

これには、吉田さんたちメンバーは、悔しくて仕方がなく、お酒を飲みながら涙し、また、その思いをどこにぶつけていいのか分からず、時には、殴り合いのケンカにまで発展したこともあったそうですが、

広島で音楽を奏でる誇り

を、心の支えとし、再び音楽に取り組むと、

翌年の1968年には、「第2回ヤマハLMC(ライト・ミュージック・コンテスト)」中四国大会のヴォーカル&グループサウンズ部門で、再び優勝。

今度こそ、全国大会に進出するのですが・・・

1968年11月3日、渋谷公会堂で開催された「第2回ヤマハLMC(ライト・ミュージック・コンテスト)」の全国大会では優勝できなかったそうで(4位)、

メンバーたちは、途端にやる気をなくし、バンド活動は徐々に減少していったのだそうです。

(ちなみに、この時の優勝者「マックス」は、後に、吉田さんのバックバンドを務めたそうです)

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女の子を好きになる事で音楽人として成長していた

ところで、吉田さんたちは、米軍キャンプでは、ビートルズ、ローリング・ストーンズ、スペンサー・ディヴィス・グループ、サム&デイヴ、オーティス・レディング、サム・クックなど、エレキギターで、様々なロックやリズム&ブルースを演奏していたそうですが、

吉田さんは、後に、

人生観を変えたのは恋愛の方、女の子を好きになる事が自分を音楽人として育てあげた

と、語っており、音楽をやるうえで糧になったのは、このような様々な音楽体験ではなく、恋愛だったようです。

(ちなみに、米軍キャンプでは、ザ・ビーチ・ボーイズなどのロックを演奏すると、白人が入ってきて、「OUT !」と、黒人を追い出し、リズム&ブルースを演奏すると、逆に、どどっと黒人が入って来て、白人が出て行ったそうで、白人と黒人とでは、聴く音楽がはっきり分かれていたそうです)

「吉田拓郎が若い頃は「広島フォーク村」を提案していた!」に続く

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