1969年、大学5年目(1年休学しているため)の時、就職が決まるも、「広島フォーク村」名義のアルバム「古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう」の自主制作に参加し、レコードを手売りしていた、吉田拓郎(よしだ たくろう)さんは、やがて、インディーズレーベル「エレックレコード」の浅沼勇さんに見い出されます。

「吉田拓郎が「古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう」に参加した経緯は?」からの続き

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インディーズレーベル「エレックレコード」の浅沼勇に見い出される

1970年3月頃、「広島フォーク村」のメンバーとして、当時巻き起こっていた学園闘争の「上智大学全共闘」のメンバーと、アルバム「古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう」を自主制作し、手売りしていた吉田さんですが、

当時、インディーズの儲かりそうな新人を探して地方へ飛び回っていた「エレックレコード」(前年の1969年に設立したばかりだったそうです)のディレクターの目に留まると、

「エレックレコード」の専務でライトミュージック・コンテストのプロデューサーでもあった浅沼勇さんに、

レコード出してやるから歌えよ

と、他のメンバーの何人かと共に呼ばれます。

(浅沼さんは、歌謡曲や演歌のレコードしか売れなかった当時、友人で文化放送のアナウンサーをしていた土居まさるさんのため、レコード(「カレンダー」)を出してあげたことがあったそうですが、予想以上に売れたそうで、これに味をしめ、もっとレコードを出そうと、地方から新人を連れてくるよう(新人発掘)、各ディレクターに命じていたそうです)

朝日ソノプレス社から「ソノシート」が発売される

すると、ずば抜けた才能を持つ吉田さんは、すぐに浅沼さんに目を留められ、一人だけ呼びだされて、レコーディングすることになったそうで、

当時、「エレックレコード」に所属していたなぎら健壱さんは、

(レコーディングしたが)でも実は最初はレコードじゃなくて、朝日ソノラマから出すソノシートです。それが吉田拓郎です。

早かったですね、売り出し方が。1年で3枚くらい出したんじゃないですか?とにかく拓郎さんは、飛び抜けた、卓越した才能を持っていました。

と、語っています。


「よしだたくろう メモリアルヒット曲集 ’70真夏の青春」

(※ソノシートとは、塩化ビニールなどで作られた薄手のやわらかいレコードで、朝日ソノプレス社が”音の出る雑誌”という触れ込みで『月刊 朝日ソノラマ』という雑誌を発行し、同時に、雑誌や漫画単行本、文庫の出版も手がけていました)

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浅沼勇が語る吉田拓郎との出会い

ちなみに、浅沼さん本人の話は、少し違っていて、

あるプロデューサー志望の初めて会った青年(伊藤明夫さんかは不明)が、

浅沼さん、これからの日本のフォーク・ソングには、こんな歌が必要だと思うんですが・・・

と、1本のテープを持ってきたそうで、そのテープの中には、たくさんの曲が入っていたそうですが、

その中の、吉田さんの「イメージの詩」を聞いた浅沼さんは、これはと思ったそうで、すぐに、この歌を歌っている青年(吉田さん)を東京に呼んで話をしたところ、

その青年(吉田さん)は、

浅沼さん、ラジオやテレビで流れているフォーク・ソングはもう古いと思いませんか?いや、浅沼さん自身の考えておられる歌ももう古いと思うんです。

ぼくたちの本当に求めている歌はもっと違うところにあると思うんですよ。まだそれが何だかよくわからないけど、ぼくはぼくなりに歌を作り歌い続けることによって、それを見つけ出そうと思っているんです。

と、言ったそうで、

浅沼さんは、

この青年、のっけから私の痛いところをつっついてきた。

と、感じたとのこと。

ただ、いずれにしても、浅沼さんが、吉田さんの群を抜いた才能に驚いたことは間違いないようです。

「吉田拓郎のソロデビュー曲「イメージの詩」は当初無断で販売されていた!」に続く

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