「広島フォーク村」の初代村長の伊藤明夫さんが東京で知り合った上智大学全共闘のメンバーと、自主制作で「広島フォーク村」名義のアルバムを制作することになり、アルバム「古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう」を制作した、吉田拓郎(よしだ たくろう)さんですが、今回は、その経緯についてご紹介します。

「吉田拓郎が若い頃は「広島フォーク村」を提案していた!」からの続き

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「広島フォーク村」初代村長の伊藤明夫が上智大学の学生運動家と知り合ったのがきっかけ

もともと、吉田さんと蔭山敬吾さんと共に、「広島フォーク村」結成の中心メンバーで、初代村長となった伊藤明夫さんが、広島アマチュア・フォーク界の代表として、東京で開かれたある会議に出席した際、

上智大学の全共闘運動をやっていた男性と知り合り、

レコードを作りたいんだけどいいヤツがいたら教えてくれないか

と、頼まれたそうで、

詳しく話を聞いてみると、

実は(学生)運動の方はポシャっちゃったんだけど、仲間たちとフューチャーズ・サービスというサークルを作ってミニコミ活動をやっている。彼らはそこを拠点に「ミニからマスへ、逆流のコミュニケーション」なんてスローガンを掲げて、頑張っているんだ

とのことで、

伊藤さんは、この「フューチャーズ・サービス」というグループに会ってみることにしたそうです。

「広島フォーク村」初代村長の伊藤明夫が吉田拓郎に「フューチャーズ・サービス」を紹介

すると、「フューチャーズ・サービス」の中にいたSさんという人が、特にレコード作りに関して熱心で、

既成の大会社では実現できないような手作りのレコードを自分たちの手で作りたい

と、言ったことから、

伊藤さんもおもしろいと思い、

じゃあ広島にひとり素晴しい男がいるから、どうです、やってみませんか

と、吉田さんを紹介することを思いついたそうです。

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吉田拓郎は「フューチャーズ・サービス」を喰わせ者と思っていた

こうして、伊藤さんは、Sさんを連れて広島へ帰り、吉田さんを紹介したそうですが、

吉田さんはというと、後に、このSさんとの出会いについて、

卒業の直前だったな。でも、初めは信じられなかったよ。とにかく彼らはやたら札ビラをきって、何十人ものヤツを一緒にキャバレーに連れていってくれたり、飲めや食えやの大盤振舞いをするわけ。

こりゃ喰わせ者じゃないかって思ったけど、まあ、だまされてもともとくらいの気持ちで、じゃあとにかく東京に行ってレコーディングしてみましょうってことになったんだよ

と、語っています。

(ちなみに、吉田さんのバンド「ザ・ダウンタウンズ」は、1969年には、メンバーの結婚や就職をきっかけに自然消滅したそうで、解散コンサートも行われなかったそうです)

「吉田拓郎が若い頃は浅沼勇(エレックレコード)に見出されていた!」に続く

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