1973年には、女子大生の嘘の証言を信じた警察により、何の取り調べもなく、突然、逮捕されて8日間も留置所に勾留され、そのうえ、マスコミの激しいバッシングに遭い、一時は歌手活動停止にまで追い込まれた、吉田拓郎(よしだ たくろう)さんですが、翌年の1974年には、見事、大逆転を果たします。

「吉田拓郎は女子大生の嘘で大損害を被るも逆告訴していなかった!」からの続き

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森進一に提供した「襟裳岬」が「日本レコード大賞」を受賞

1973年には、女子大生の嘘によって、逮捕され、留置所に8日間も勾留されたうえ、マスコミにも激しいバッシングを受け、

ツアーは中止、自身の曲が使用されていたCMは自粛、ほかのアーティストに提供した楽曲も放送禁止と、活動停止に追い込まれるほどの大きなダメージを受けた吉田さんですが、

翌年の1974年1月には、森進一さんに提供(作曲)した「襟裳岬」が100万枚を売り上げる大ヒット。

これにより、森さんは、同年末の「第16回日本レコード大賞」「日本歌謡大賞」をダブル受賞しているのですが、吉田さんも授賞式に出場しています。

「レコード大賞」の授賞式に上下ジーンズの普段着で出場していた

ただ、吉田さんは、当時、国民的な大イベントだった「日本レコード大賞」の授賞式に上下ジーンズの普段着で出場しており、物議を醸(かも)しました。

実は、もともと、吉田さんは、1960年代の高校2年生の時、アメリカのシンガー・ソングライター、ボブ・ディランさんの、それまでのアメリカンポップスや日本の歌謡曲とは全く違う、常識にとらわれない独自のスタイルに大きな影響を受け、ギター1本で曲を作るようになったという経緯があり、ジーンズで授賞式に出場したと思われるのですが、


「第16回日本レコード大賞」授賞式より。(左から)吉田さん、森進一さん、(作詞家の)岡本おさみさん。

実際、2016年10月13日にボブ・ディランさんの「ノーベル文学賞」受賞が決まった際には、

吉田さんは、

ディランが燕尾(えんび)服を着て、ノーベル文学賞をもらいに来るなんて想像できない。すごい出来事だなと思う半面、ディランは一体、どう感じているんだろうという思いがある

(自身はひんしゅくを買ったが)ディランは燕尾(えんび)服なんて着ないで、ディラン風のファッションで行ったら格好良いだろうな、と思う。そう言うとまた、何も分かっていないことになるのでしょうが

と、語っています(笑)

(ちなみに、ディランさんは受賞が決まってもずっと沈黙を貫き、2週間後にようやく授賞を受け入れる発表しているのですが、授賞式は欠席しています)

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演歌歌手の森進一に曲を提供した理由とは?

ところで、フォーク歌手の吉田さんが、なぜ、演歌歌手の森進一さんに曲を提供したのでしょう。

実は、当時、森さんが契約していたレコード会社「日本ビクター」は、設立50周年という大きな節目を迎えようとしており、森さんのほか、フランク永井さん、松尾和子さん、三浦洸一さん、鶴田浩二さん、橋幸夫さん、青江三奈さんなど、「日本ビクター」の屋台骨を支えていた歌手たちが、記念となる1974年の1月に、新曲シングルを一斉に発売しようということになったそうで、

そこで、森さんだけは、何か新しい発想のレコードをリリースしようということになり、当時、入社して間もない新人ディレクターだった高橋隆さん(元「ソルティー・シュガー」のメンバー)が、

そういえば吉田拓郎と飲んだ時に、酔っぱらって、森進一に曲を書いてみたいなとか、演歌みたいなのだって書けるんだぞ、と豪語してた

と、言うと、高橋さんの案が採用されたそうで、吉田さんにオファーし、出来上がったのが、「襟裳岬」だったのだそうです。

(高橋さんにとっても、演歌歌手の森さんがフォーク歌手の吉田さんの作った曲を歌うというのは、ギャンブルのようなアイディアだったそうですが、出来上がった曲を聴くと、その不安は消し飛んだといいます)

「吉田拓郎が森進一に作曲した「襟裳岬」は当初B面扱いだった!」に続く

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