1975年4月、小室等さん、井上陽水さん、泉谷しげるさん、後藤由多加さんとともに、日本初となる、アーティスト主導のレコード会社「フォーライフ・レコード」を設立した、吉田拓郎(よしだ たくろう)さんですが、今回は、それぞれの証言を交えながら、そのいきさつをご紹介します。
「吉田拓郎は日本初の歌手主導のレコード会社を設立していた!」からの続き
「フォーライフ・レコード」の仕掛人は小室等だった?
1974年、アメリカ・ニューヨークのウッドストックを訪れると、アメリカの音楽事情を知り、自分たちのレーベルを持つという夢を、後藤由多加さんと語り合ったという吉田さんは、帰国後、さっそく、友人の小室等さんに、自分たちのレーベル設立について提案したそうで、
ちょうど小室さんも、所属事務所「ベルウッド・レコード」のニューミュージック方面の販売促進力の弱さなどに不満を感じ、自身のレーベル設立を模索していたことから、二人は意気投合。
また、折よく、小室さんの事務所に、
小室等さんがレコード会社を作るなら出資する
という提案が持ち込まれていたことから、小室さんがその話を吉田さんに持ちかけ、計画が具体化していったそうで、
吉田さんは、後に、
小室さんと僕が最初二人で色んなことを練ってたんですよ。その時に「拓郎、お前は泉谷(しげる)に電話しろ、俺は(井上)陽水に電話するから」という小室さんの一言で決まったんです。
皆さんが思っておられる通り、彼が言い出しっぺですよ(笑)
と、仕掛人は小室さんだったと語っています。
やはり仕掛人は吉田拓郎か
ただ、吉田さんから連絡を受けた泉谷しげるさんは、後に、
どうかなぁ~(あの仕掛人は)やはり拓郎でしょう!全部ああやって盛り上げて「面白いことやろう!」って言うのはだいたい彼ですからね。ほとんど相手に有無も言わせずに相槌を打たせる感じでね(笑)
あの熱っぽい勢いでやられちゃうと、みんな「うん!」って言っちゃうのよ(笑)彼にはそういうパワーがありましたね。その計画を陽水がするなんて考えられないわけで(笑)
と、明かしており、本当の仕掛人がどちらかは不明ですが、
いずれにせよ、吉田さんによって推進力が増していたのは間違いなさそうです。
井上陽水も「フォーライフ・レコード」設立に参加
実際、小室さんによると、吉田さんと二人でやるつもりで話を進めていたところ、
吉田さんから、
俺と小室さんの二人でやるんじゃ分かりやすくて面白くない。井上陽水が入るんならやってもいい。あんた陽水と親しいなら話してみてくれ
と、言われ、
参加しないだろうと思いつつも、井上さんに話を持ちかけると、
参加したい
と、意外にも井上さんが快諾したことを明かしています。
ちなみに、井上さんは、その理由について、
当時、僕のレコードがたくさん売れてくれて・・・そうなってくるとね、そのことに対してあまりありがたいって思わなくなってきたんですよね。
それで「もっと面白いことないかなぁ~」なんて思ってて、その時に友達の小室等から連絡が来て「拓郎や泉谷と一緒にレコード会社作らない?」ってね。いいね~面白そうだね~って感じでしたよねぇ
と、語っています♪
泉谷しげるも「フォーライフ・レコード」設立に参加
こうして、吉田さん、小室等さん、井上陽水さんの3人が集まったのですが・・・
「何か足りない」「もう一人、毒のあるのが欲しい」となり、泉谷しげるさんが選ばれたそうで、吉田さんが泉谷さんに声をかけると、泉谷さんもこの申し出を快諾。
こうして、「フォーライフ・レコード」設立のため、フォークシンガー4人が集結したのでした。
ちなみに、泉谷さんは、当時のことを、
俺はその年(1975年)の3月、アメリカに行っている時に、国際電話がかかってきて誘われたんだ。最初の頃は冗談というか遊びだと思ってたよ。
そしたら、マジに株主総会とかさ(笑)株券の何%持つとか。えれえ話になっちまって(笑)ちょっと待って!俺にそんな話すんなよ!ミュージシャンが株券もってどうすんだよって!(笑)
フォーライフは吉田拓郎という天才が作ったもの。オレは誘われただけ
と、明かしています。
(当時、泉谷さんは、吉田さん退社後の看板スターとして、「エレックレコード」に在籍していたのですが、吉田さんが「CBSソニー」へ移籍し、稼ぎ頭を失った「エレックレコード」は、新人発掘のため、渋谷のライブ喫茶「ジァン・ジァン」や「青い森」に出演しているミュージシャンをスカウトしていたそうで、その筆頭が、「青い森」で演奏していた泉谷さんだったそうです)
「吉田拓郎は日本初の野外オールナイトイベントを成功させていた!」に続く