太平洋戦争の敗戦と天皇の人間宣言に大きな影響を受け、演劇と陸上競技で有名だった早稲田大学に進学したという、篠田正浩(しのだ まさひろ)さんですが、今回は、そんな篠田さんの、陸上選手時代のエピソードをご紹介します。
「篠田正浩は「心中天網島」を観て早稲田大学進学を決めていた!」からの続き
高校3年生の時には国体に出場
演劇の勉強と陸上競技をするため、早稲田大学に進学したという篠田さんですが、中学の頃から学校で一番足が早く、1946年、高校3年生の時には、400メートル走で岐阜県で一番になったそうで、
「第3回 国体」(国民体育大会)が九州・博多で開催された際には、岐阜から九州まで遠征したそうです。
(ただ、国体では予選で敗退してしまったそうです。また、この時、瀬戸内航路で別府から船に乗って大阪に上陸して帰ったそうですが、この時の旅行体験をもとに、後に、映画「瀬戸内ムーンライト・セレナーデ」(1997)を制作しています)
早稲田大学競走部に入部
さておき、篠田さんが、早稲田大学に進学し、競走部に入部すると、監督は棒高跳びのベルリン・オリンピック銀メダリスト・西田修平さんだったそうですが、
西田さんからは、
篠田君は、400メートルですか。400メートルなら、中村清さん(コーチ)のところへ行ってください
と、言われたそうで、
言われた通り、中村さんがコーチを務める、400、800、1500メートル走(中距離)のところで練習を始めたそうです。
(中村さんは、後に、戦後初の本格的なマラソンランナー・瀬古利彦さんを育てたコーチとして有名になります)
早稲田大学では中村清コーチとの出会いで駅伝ランナーに転向
すると、中村さんからは、
篠田、400メートルの世界記録は何秒だ?
と、聞かれ、
篠田さんは、
46秒フラットです
と、答えたそうですが、
君の記録は何秒だ?
と、聞かれ、
56秒4です。
と、答えると、
さらには、
君のこれからの目標は?
と、聞かれ、
大学を出るまでに51秒台にしたいと思います。
と、答えたそうですが、
中村さんからは、
あのグラウンドのあそこを見ろ。朝日新聞のスポーツ記者の織田幹雄先輩が三段跳びを教えているだろう。彼は三段跳びのアムステルダムの金メダリストだ。
こっちでブロードジャンプを教えている南部忠平さんは、ロサンゼルスオリンピックの金メダリストだ。俺たちの先輩は、みんな世界選手だ。戦争に負けたというエクスキューズばかり言っていないで、我々も世界を目指そう。
見ろ。今グラウンドで長距離の選手が練習をしている。あいつらは5000、1万メートルだ。5000、1万メートルを走るために、彼らは2万メートルを走るスタミナをつけようと練習をしている。
こんな時代ではない。今おまえたちが走っている400メートルのスピードでそのまま5000メートルを走ると世界記録だ。おまえたちこそ長距離をやらなければいけないのだ。今日から5000メートルにしろ
と、言われたそうで、
篠田さんはこれが気に入り、以来、20キロを走る駅伝ランナーになったのだそうです。
箱根駅伝では2区の走者として早稲田大学の準優勝に貢献していた
また、中村さんとは、
中村さん:篠田、教室で何を習っている?
篠田さん:はい、サルトルです
中村さん:サルトルって、何を教えるのだ
篠田さん:実存主義です
中村さん:実存って何だ?
篠田さん:人間というのは生まれるということを選択できなくて存在するだけです。存在を意識すると、自分は何者かということを考えるようになる。
すると、それは全て絶望に変わってくる。絶望を自覚することによって、他者と出会う本当の自分が発見できる。それが実存主義です。
中村さん:では、おまえは走りながらその実存を見つけろ。400メートルでは(短すぎて)見つからんぞ
というやりとりもあり、これからは長距離スピードの時代だと言われ、山手線内の土地をひたすら走る練習をしたそうで、
その甲斐あって、篠田さんは、1年生ながら箱根駅伝の花形である2区の走者に抜擢されると、早稲田大学は下馬評を覆して準優勝に輝いたのだそうです。
(ただ、篠田さんは、その後、3年生の時、アキレス腱を故障してしまい、陸上を断念したそうです)
「篠田正浩は陸上競技をやっていたから映画監督になれた?」に続く