ダメ元で受けた「松竹」の助監督試験で、筆記試験、1次面接と無事通過した、篠田正浩(しのだ まさひろ)さんは、最終面接も合格し、見事、超難関だった「松竹」の助監督になると、1953年の入社以来、助監督として、様々な監督の下で下働きをしつつ、監督の脚本の手伝いもするようになり、1959年には、ついに自作のシナリオを書き上げたといいます。
「篠田正浩は大学卒業後は松竹の助監督試験を受けていた!」からの続き
松竹の助監督試験に合格
ダメ元で「松竹」の助監督試験を受けるも、筆記試験を難なくクリアし、面接でも、会社の質問をする人、監督の質問をする人、組合の質問をする人の、3つの質問を無事こなした篠田さんは、
最終面接でも、映画監督の大庭秀雄さんの、
どうして映画の道を選んだのか
という質問に対し、
黒澤明監督の「姿三四郎」を観た時の体験と、戦後、焼け野原で、松竹の映画「愛染かつら」を、物凄い数の人の中で観たことを話し、
映画が敗戦の日本人を救う大きな力を持っていたことに感動しました
と、答えると、
2000人の受験者中たった8人の採用枠に見事合格したそうで、1953年、早稲田大学卒業後、「松竹」に入社します。
(もともと、5人の採用予定だったそうですが、あまりに大勢だったことから8人に変更されたそうです)
松竹入社後は体力のいる仕事ばかりに回されていた
そして、「松竹」入社後は、助監督として働き始めるのですが・・・
篠田さんが入社した1953年は、助監督があふれるほど多かったことから(約70人もいたそうです)、競争が激しく、篠田さんは、元陸上選手という経歴から、日数も予算も少ないハードなロケの映画の助監督など、体力の必要な力仕事ばかりを命じられたそうです。
(助監督室には個人用のメールボックスがあり、入社順に上から配列されていたそうで、新人の篠田さんは一番下の方だったそうですが、それでも、上から少し下がったところにラインがあり、このラインを過ぎると万年助監督という場所(「ラッキーボックス」と呼ばれていたそうです)があったそうで、決して年功序列ではなく、競争の世界だったそうです)
自作シナリオ「怒りの祭壇」を執筆
こうして、篠田さんは、岩間鶴夫監督、中村登監督、原研吉監督など、様々な監督の下で使い回される日々が続いたそうで、周りの助監督が次々と出世していったこともあり、次第に焦り始めたそうですが、
競争に勝つためには、まず、脚本が書けることが大事だと思い、監督の脚本の手伝いもするようになったそうで、1959年には、ついに、「怒りの祭壇」という自作のシナリオを書き上げたのだそうです。
(才能のある助監督はみな監督の脚本の手伝いをしていたそうです)
「篠田正浩が若い頃は「乾いた湖」が大ヒットしていた!」に続く