当初は、半強制的にジョン・レノンさんに「ジョニー&ザ・ムーンドッグス」に加入させられるも、やがては、バンド名を「ビートルズ」に改名するよう提案するなど、すっかりバンドの一員となっていった、スチュアート・サトクリフ(Stuart Sutcliffe)さんは、その後、「ビートルズ」のメンバーとともに、プロを目指してハンブルクへ出発します。

「スチュアート・サトクリフは「ビートルズ」の名付け親だった!」からの続き

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ピート・ベストが「ビートルズ」に加入

スチュアートさんたち「ビートルズ」は、プロになるきっかけを探して、かねてより、頻繁に、リバプールの「ジャカランダ」というナイトクラブに通い、演奏していたそうですが、

(オーナーのアラン・ウィリアムズさんに仕事の斡旋(あっせん)を頼み、仕事をもらっていたそうです)

1960年8月、その「ジャカランダ」のオーナー・アランさんのもとに、ハンブルク(西ドイツ)に住む知人のブルーノ・コシュミダーさんから、自身の経営するクラブで演奏するバンドを紹介してほしいというオファーが来ます。

ただ、コシュミダーさんは、ドラムを含めた5人編成でのバンドを希望していたそうで、当時、ドラムがいなかった「ビートルズ」は、急遽、ドラムを探すことになったそうで、

ジョン・レノンさんとポール・マッカートニーさんが、「ザ・クオリーメン」時代に、「カスバ・コーヒー・クラブ(Casbah Coffee Club)」を拠点として活動をしていた際、経営者の息子、ピート・ベストさんがドラムをやっていたことを思い出し、ピートさんを誘うと、ピートさんもこれを承諾したそうです。

総勢10名でヴァンに乗りフェリーで英リバプールを出発

こうして、1960年8月16日、スチュアートさん、ジョン・レノンさん、ポール・マッカートニーさん、ジョージ・ハリスンさん、ピート・ベストさんの5人は、マネージャーのアラン・ウィリアムズさんが運転するグリーンのオースチン・ヴァンに機材を積み、英リバプールの「ジャカランダ・クラブ」を出発すると、

まずは、ロンドンに立ち寄り、ハンブルグの興行主・ブルーノ・コシュミダーさんの通訳をしてくれるスタイナーさんを拾い、イギリスのハリッジという所からオランダ行きのフェリーに乗ったそうです。

(ちなみに、ヴァンには、そのほか、アランさんの妻のベリルさん、ベリルさんの弟とその友人も一緒だったため、総勢10名となっていたそうで、ジョージ・ハリスンさんによると、ヴァンは座席すらなく、アンプに腰を掛けなければならないほど窮屈だったそうです)

独ハンブルクに到着するも・・・

そして、オランダに到着すると、今度はアルンヘムへ向かったそうですが、途中、アランさんが何度も道を間違えながらも、なんとかアルンヘムへ到着。

アルンヘムでは、待ち時間の間、戦没者記念碑で写真を撮ったり、街をぶらぶらして時間を潰したそうで、その後、ドイツに入ると、1960年8月17日早朝、ハンブルクに到着したのだそうです。

(ちなみに、このアルンヘムでの待ち時間中、ジョン・レノンさんは街の楽器店でハーモニカを万引したといいます)

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独ハンブルク「インドラ・クラブ」での初演奏は劣悪な環境だった

ただ、ブルーノ・コシュミダーさんの所有するハンブルクの「インドラ・クラブ (Indra Club) 」は、早朝のためまだ閉まっていたそうで、近所のクラブの支配人が誰かを見つけてきて開けてもらい、奥まった小さな部屋にあった革のイスで仮眠をとり、その日の夜、「インドラ・クラブ」のステージに上がったそうですが、

疲れと空腹の中、客は主に娼婦とその客が10人ほどだけで、さらには、コシュミダーさんから、(上階に住む女性から苦情が来るという理由で)アンプの音量を下げるように言われていたそうで、ハンブルクでの初ステージはなかなか厳しいものがあったそうです。

(それでも、なんとか4時間半、きっちり演奏をこなしたのだそうです)

「スチュアート・サトクリフはビートルズで悪臭漂う部屋に住んでいた!」に続く


独ハンブルク「インドラ・クラブ」での初日。(左から)ジョン・レノンさん、ジョージ・ハリスンさん、ピート・ベストさん、ポール・マッカートニーさん、スチュアートさん。

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