ラジオ番組「ミュージックプレゼント」などで、いつも元気な印象の、毒蝮三太夫(どくまむし さんだゆう)さんですが、70歳の時には、「腸閉塞」と「大腸ガン」を併発し、手術を受けていたといいます。
「毒蝮三太夫の愛妻家ぶりが凄い!」からの続き
腸閉塞と大腸ガンを併発していた
毒蝮さんは、2006年、70歳の時、「腸閉塞」と「大腸ガン」を併発し、手術を受けていたといいます。
実は、2005年12月、聖路加病院の日野原重明氏の文化勲章受章パーティーに出席した際に、お腹の張りを感じ、おかしいと体調の異変に気づいたそうで(食欲がなくお酒も飲みたいと思わなかったそうです)、その足で病院に行き、エコー検査をしたそうですが、
精密検査が必要だと言われたことから、年明けの正月すぎに落ち着いてから調べることになったのだそうです。
大晦日の夜に猛烈な腹痛に襲われる
ただ、12月31日、奥さんと車で鎌倉に行き、名物のシラス寿司を2~3個食べるなどして、年を越そうとしていると、夜10時頃、猛烈な腹痛に襲われたそうで、
初詣どころではなくなり、すぐに宿をキャンセルし、夜中に自分で車を運転して自宅に戻り、近所の病院に駆け込むと、
診察してくれた宿直の先生からは、
これじゃ手遅れよ!どうしてここまで放っておいたの!
と、叱られたのだそうです。
(お腹がガスでパンパンに張っていたそうです)
手術は6時間以上かかっていた
そして、その病院の設備では対応できない状態だったことから、先生が国立病院に電話を入れてくれたそうで
(最初は断られていたようで、嘆願する先生の声が聞こえてきたそうです)
なんとか国立病院に転院すると、
(そこでも、放っておいたことを叱られたそうです)
検査の結果、「腸閉塞」との診断で、小腸が大腸の腹壁に癒着しており、もし、痛みが出るのが遅くて破裂していたら、致死率は4割以上になっていたのだそうです。
とはいえ、毒蝮さんは、もともと糖尿病の気があったことから、すぐに手術はできず、17日後にようやく開腹手術を受けたそうですが、切除した腸を開くと、腫瘍も見つかったそうで、腸壁との癒着を取るのに、手術は6時間以上もかかったのだそうです。
手術後は無事に回復
ちなみに、その後、毒蝮さんは、41日間入院したそうですが、入院中は点滴の針を刺すのが痛くて、
こんなに痛いなら点滴を外してくれ
と、言ったこともあったそうですが、
医師に、
私たちはあなたの病気が治ると思って治療しています。だから点滴を続けてください
と、言われ、治そうとしてくれる人たちがいることに気づいたそうで、
その後は、「いい患者になろう」と改心すると、順調に回復したそうで、
毒蝮さんは、
俺、30センチくらい割腹したの。幸い転移はなく、今は以前にも増して元気だけど、健康診断を欠かさないなど、体のケアは大事だと悟ったね
一度拾った命、格好いいジジイになろうと思っているよ。目指せ、日本のジョージ・クルーニーだな(笑)
と、語っており、現在は、定期的に病院に通い、検査を受けるほか、健康を維持するために、週に1~2回、ジムのプールで水中ウォーキングをしているとのことでした。
さて、いかがでしたでしょうか。
毒蝮三太夫さんの、
- 年齢は?出身は?身長は?
- 本名は?
- 芸名の由来は?
- 親友の立川談志に勧められて正式に改名
- 少年時代は家に鍵をかける習慣がなかった
- 兄2人は異父兄弟で10歳以上年が離れていた
- 母親は自由気ままで家事が嫌いだった
- 母親は情に厚く人の話を聞くのが上手だった
- 父親は息子の披露宴で挨拶を割愛されていた
- 父親は挨拶を割愛されても一言も文句を言わなかった
- 父親に感謝
- 戦時中は学童疎開せず両親と共に東京に残っていた
- 東京大空襲(下町空襲)で下町が真っ赤に染まるのを見ていた
- 東京大空襲(城南大空襲)を経験していた
- 消火活動を諦め高台に避難することに
- 火の海を水中メガネをかけて避難
- 死体だらけの焼け野原を家路に向かって歩いていた
- 道すがら拾った靴の中には足首が
- 防空壕のフタを外すも・・・
- 防空壕の中の人たちは目を開けたまま亡くなっていた
- 9歳の時、玉音放送で終戦を知り内心大喜びしていた
- 終戦後は東京に戻り母親がしるこ屋を開業
- 友達の付き添いで行った舞台「鐘の鳴る丘」のオーディションに合格
- 劇中で本物のお米を食べるのが楽しみだった
- 「鐘の鳴る丘」はGHQの指示で作られたラジオドラマを舞台化したものだった
- 「青い真珠」で映画デビュー
- 少年時代は落語が好きで、寄席の帰り道に落語を暗記していた
- 高校卒業後は映画監督を目指して日本大学芸術学部映画学科に入学していた
- 「坊っちゃん」でテレビドラマデビューするも当初はチンピラ役ばかりだった
- 当初テレビはライトが熱く、誰もが出演したがらなかった
- 「ウルトラマン」の科学特捜隊・アラシ隊員役で子供たちの人気者に
- 「ウルトラマン」出演が決まった当初はただただホッとしていた
- 「ウルトラマン」の出演は当初はバカにされていた
- 「ウルトラマン」では当初は真面目に演じていなかった
- 「ウルトラマン」の撮影は過酷だった
- 「ウルトラセブン」では地球防衛軍フルハシ隊員役
- 「ウルトラマン」「ウルトラセブン」が代表作に
- 立川談志との出会いは落語つながり
- 立川談志のことを最初はよく思っていなかった
- 立川談志に俳優として評価されていた?
- 立川談志からしきりに落語家になるよう口説かれていた
- 立川談志の計らいで落語界に入ることができた
- 演芸番組「笑点」で改名していた
- 立川談志とともに「笑点」を降板していた
- 今でも落語家だと思われている
- 立川談志は強烈な皮肉屋だった
- 立川談志を駅のホームから突き落とそうとしていた
- 立川談志が麻雀を途中でやめると言い出した際には猟銃で?
- 立川談志の長女(松岡ゆみこ)の結婚式では花嫁の父親役を頼まれていた
- 立川談志と最後に会ったのは死去する約半年前
- いつ訃報が来るかと怖かった
- 立川談志の訃報を受けた時にはすでに荼毘に付されていた
- 「深友」立川談志への想い
- 50年以上もラジオ「ミュージックプレゼント」でパーソナリティ
- 高齢者を「ジジイ」「ババア」と呼んで人気を博す
- 「ジジイ」「ババア」と言い始めたのは母親の死がきっかけ?
- 当初はラジオ局(TBS)に抗議が殺到していた
- 「ジジイ」「ババア」には親しみや敬意が込められていた
- 突然ラジオのパーソナリティになった理由とは?
- 立川談志に話をする仕事をずっと勧められていた
- 出演作品(映画)
- 出演作品(テレビドラマ)
- 出演作品(CM)
- 著書(本、絵本)
- 「老後の資金がありません!」で草笛光子に「ババア」と言っていた
- 草笛光子に「ババア」と言ったのは毒蝮三太夫のアイディアだった
- 草笛光子だからこそ「ババア」と言うことができた
- 劇中「ババア」を言うチャンスを伺っていた?
- 妻には一目惚れだった
- 積極的にアプローチするも当初は遊び人と思われ相手にされなかった
- 結婚を前提とした交際を申し込む
- 赤坂プリンスホテルで挙式
- 結婚当初は嫁が家計を支えていた
- 嫁は一切小言を言わなかった
- 嫁には「毒蝮三太夫」への改名を黙っていた
- 妻は奥ゆかしい美人
- 1ヶ月に2~3回は妻宛てにハガキをしたためてポストに投函
- ハガキは妻が入院している時に手紙を書いたのがきっかけ
- クジで言えば大当たりの妻
- 子供は?
- 腸閉塞と大腸ガンを併発していた
- 大晦日の夜に猛烈な腹痛に襲われる
- 手術は6時間以上かかっていた
- 手術後は無事に回復
について、まとめてみました。
いろんなところが傷んできて、苦しまずに電気が切れるようにポッと消えるのが理想。歳を考えれば確実に死は近づいているわけだから、明日ぽっくりでも不思議はないと思っているよ
と、語っていた毒蝮さんですが、
まだまだ、元気いっぱいの”温かい毒舌”を見せ続けてほしいものです。